橋本英郎公式サイト「絆」
FRIENDS

vol.33 岩城ハルミ(元バドミントン選手)

橋本:ハルミさんは何年で引退されたんですか?
岩城:バルセロナ五輪に出場した年、92年に引退しました。先ほどちらっと話しましたけど、五輪前は本当にいろんなことがありすぎて…それでも、自分としては出来ることを目一杯やって、実際に五輪にも出場できましたからね。そこで「もう、いいかな」と思えた。それに、所属していた尚美学園の子供たちの方に何かしてあげたいっていう気持ちも強かったので、スパッとやめて指導者の道へ進みました。
橋本:そんなにスパッとやめられるもんなんですか?!っていうか、実際に、やめたあとの気持ちはどうでしたか?
岩城:すぐに指導者としての生活がスタートしたし、あまり考える間もなかったので…やめたことに対してはあまり深く考えなかったですね。それに、ずっとバドミントンだけをして生きてきた分、他の道にチャレンジしたいという気持ちも強かったですから。実際、引退後は指導者をしながらも、着付けの先生の免許をとったり、トールペインティングに挑戦したり、やりたいと思うことはいろいろとやって…それに、その頃にはちょうど結婚願望も出て来た頃でしたからね。バドミントンの指導をしながらもいろんなことを欲張りに考えていた気がします。
橋本:そのタイミングで岩城トレーナーに出会ったんですか?
岩城:はい。引退したのが28才で、引退後も関西に帰らずに東京で指導者の道をスタートさせたんですけど、親にしてみたら、そろそろ結婚をと思っていたらしくて。「いい人を紹介してくれる人がいるから会わない?」みたいに言われたんですけど、私としてはいまいちピンとこなかったし、とりあえず「紹介されるならこんな人じゃないと嫌や!」っていうのを紙にバ~ッと書いたんです。
橋本:うわ、めっちゃ面白い。どんな条件を出したんですか?!
岩城:ありきたりですけど…身長が 180センチ以上、血液型が私と同じO型。で、次男。もちろん経済力もあり…といっても金額は明確に言った訳ではないですけどね(笑)。あとはやっぱりスポーツをしている人で優しい人。それから、同じ年の人は嫌だ、と。私自身がいろんな経験をして生きて来ただけに、同じ年の男性では頼りなく思ってしまうような気がしたので…くらいかな。そんなに難しくないですよね?
橋本:いや、結構、難しいと思いますよ(笑)。で、それに岩城トレーナーが当てはまった、と。

岩城:全ての項目にあてはまった訳じゃないですけどね。ただ会ってみようという話にはなって、実際に会ってみたら、めちゃくちゃ優しくて。バドミントン界ではあり得ないくらいレディファーストで、こんな人がおるんや!って驚いた。ただ私も当時はまだ東京にいたので、最初は遠距離恋愛だったというか。主人も出張などでこっちに来ることが多かったから、ちょくちょく会っているっていう感じでした。ただ…なにせ、デートがお寺とか古風な場所が多いことにびっくりして(笑)。もともと私がモロ、体育会系でそういうタイプではなかったからっていうのもあったと思うんですけどね。
橋本:岩城トレーナーがそういう場所を好むというのは何となく想像できます(笑)。で、どこに惚れたんですか?
岩城:とにかくすごく気がつくし、気配りが出来る人だなっていうのは思っていましたね。ただ…なかなか煮え切らないというか。出会って2年くらい経っても手も握らない、くらいの感じだったから、これは白黒ハッキリさせたいな、と。それで本来、積極的なタイプの私としては我慢できずに「結婚する気とかあるんですか?」って自分から聞いちゃった(笑)。
橋本:そんなレアな話を載せても大丈夫ですか?! で、返事は?
岩城:確か…ちょっと考えたのかな? 実際、プロポーズされたのも半年後でしたしね。そもそも遠距離恋愛だったということもあて、なかなかお互いに盛り上がらないところもあったのかもしれないですけど、でも、とにかく主人と一緒にいると居心地がよかったですから(笑)。それに、さっき挙げた条件とは違って、主人とは同じ年だったんですけど、いろんなことを知っていて同じ年だとはぜ全く思えなくて。実際、今では私以上にいろんな経験をしてきているので私の方が頼りっぱなしですからね。
橋本:はい、ごちそうさまです(笑)。そして、今では2人の息子さんと1人の娘さんの3人の子供とともに…いや、違ったハルミさんを含めた4人の子供と幸せに暮らしている、と(笑)。息子さんたち2人はサッカーをしているようですが、どうですか?楽しんでやっていますか?
岩城:どうなんですかねぇ。見ていて歯がゆい部分も結構ありますけど、そこは息子たちの自主性に任せて我慢しながら見守っています。
橋本:本音を言えば、もっと練習しろ!走ってこい!と言いたい、と?
岩城:はい…ゲームをしている暇があったら外に行って走ってこい! ボールを蹴ってこい!と言いたい気持ちはあります。あの…橋本さんはゲームってどう思います? 私は自分が全然興味がないこともあって、いまいち、ゲームをすることの楽しさが理解できない!!

橋本:僕が思うに、ゲームはゲームで意外といいと思いますけどね。というのも、ゲームには発想力、イマジネーションに繋がるところもたくさんあるから。サッカーをしていると、大人になって、レベルがあがるにつれて、遊び心が出しにくくなるじゃないですか? 子供の時にやっていた「これをやってみよう」というチャレンジがなかなか出来なくなる。実際、僕らでもプレーのレベルがあがっていくにつれて、チャレンジのパスより、成功するパスを選んでしまう自分がいたりしますからね。でもそれがゲームでは出来るというか。ゲームではミスが許されるからイマジネーション豊かにプレーできる。そう考えると決して悪いとは思わないです。
岩城:うちの子はまだ橋本さんたちほど技術がないのに、それでもいいんですか?
橋本:はい。僕は頭を使うことの訓練にもなるからいいと思いますよ。ただ、対戦相手がコンピューターばかりだとよくないというか。対人でやればその人の性格が見えたりもして面白いけど、相手がコンピューターだとそれが望めないですからね。できれば人と対戦した方がいいとは思います。実際、僕らもチームメイトとゲームをすることもあるんですが、それぞれの性格が見えて結構、面白いですよ。それに、その選手が普段、どういうチームでプレーしているのかも分かる。実際、パスサッカーが中心のチームの選手はパスを繋ごうとするし、ドリブル中心のチームならドリブルをしようとしますからね。逆にパスサッカーのチームにいても、自分が「ドリブルをしたい!」と思っている選手はドリブルを仕掛けて来たりもして…。ちなみに僕は実際のプレースタイルとは全然違ってめっちゃドリブル派なんです。それはおそらく潜在的にドリブルをしてみたいっていう気持ちがあるから。そういう意味でも、ゲームの中だけでは違う選手になれるし、違う発想を持てるから楽しさは理解できます。
岩城:それを実際のプレーでやってみようということはないんですか?
橋本:あります、あります。ゲームで成功したスルーパスにチャレンジしてみたり。そういう意味ではイマジネーションを鍛えるにはいいと思いますけどね。だから禁止はしないであげてください(笑)。
岩城:そうですね。いや私も…何をやっても無駄なことは一つもないと思っているというか。自らやろうと思ってすることは全てプラスになると思っているんですけど、あまりにも長い時間やっているとついつい文句を言いたくなってしまう。
橋本:メリハリは確かに必要ですよね。でもそれも、本人たちがそう思えないと意味がないのかもしれない。
岩城:そうなんですよね。結局、自分がやらなければ、と思わないと始まらないし、身に付かないですからね。そう思うからこそ…我慢、我慢です(笑)。
橋本:そろそろ締めに入ろうと思うのですが大丈夫ですか? 最後にケガから復帰されたハルミさんに、今まさにケガから復帰しようしている僕に対してのメッセージ、アドバイスを貰えたら嬉しいんですが。
岩城アドバイスって言うのはおこがましいんですが、ケガのことって、痛みも、“出来る、出来ない”のラインも、自分が一番分かっていると思うんですよね。もちろん、ドクターやトレーナーの方たちもケガの状態は十分に把握して下さっているだろうし、常に見ていてくれるだろうけど、何よりも自分自身が一番分かっている。だからこそ、自分が設定する“出来る、出来ない”のラインを少し下げたらどうかなとは思います。というのも、一流の選手ってどうしても“出来る”ラインをギリギリの高さに設定しちゃうところがあると思うんですよね。橋本さんもそうだと思うんですけど、ラインをギリギリに設定して頑張ってしまう。ただ…いろんな経験をされてきているので、私が言うことではないとは思いますが、若い時のケガではないからこそ…先のことを考えればこそ、そのラインを少し下げながらやっていくのがいいのかな、と思います。
橋本:おっしゃっていることはすごくよくわかるし、僕自身も今のテーマは「やりすぎない」ことと、「焦らない」ことですからね。そういう冷静な自分というか、客観的に「焦るな」と言える自分がいないと、自分を止められなかったりしますしね。
岩城:そうなんです。私もそれで自分を止められずに苦しんだだけに、そこは気をつけて欲しいです。ただ、プロゆえになんでもかんでも安全に、安全にとやっていてもダメなことも分かるので、そこはドクターやうちの主人も含めたトレーナーの方たちがしっかりとついていてくれると思うので、相談しながらやっていって欲しいなと思います。実際、これを言うとノロケるみたいで嫌なんですが(笑)、私もケガをした当時に主人と出会っていたらって思うことってたくさんあるんですよね。今でもたまにケガをした際に診てもらうことがあるんですが、そうするとすごく的確にアドバイスをくれるし、すっと戻してくれる。それに何より、自分自身のケガに対する強い気持ちをすごく持たせてくれるんですよね。ケガをしたことを後ろ向きに考えさせることなく、「やるのは自分だ」という気持ちを持たせてくれる。そういう方が、主人も含めて橋本さんの周りにもいらっしゃると思うので、その方たちのアドバイスを信じて、かつ自分の中でのラインをちょっと下げて、頑張って欲しいなと思います。

橋本:ありがとうございます。同じようなことを、他の人にも言われたことがあります。「せっかくここまで戻ってきて、今またもう一度同じケガをしたら間違いなく選手生命は短くなる。だからこそ、今はとにかく我慢しながらやりなさい」って。それもあって僕も「焦らない」ということは肝に銘じているので、ゆっくりやっていこうと思います。ハルミさんもおっしゃっていましたが、僕もこの半年、ケガをしたことによっていろんな人に出会い、いろんな話を聞く機会があったのですが、それって自分にとってすごく良かったと思うんですよね。ケガをしたこと自体を良かったとは思えないけど、そういう人との出会いは自分の財産になった。だからこそ、それを大事にしながら焦らず、やっていこうと思います。今日はいろんな話を聞けて楽しかったです。ありがとうございました。これからも岩城トレーナーともどもお世話になると思いますが、よろしくお願いします。
岩城:こちらこそ遠方までありがとうございました。また気軽に遊びにいらしてくださいね。

取材協力/dieci
text by misa takamura

岩城ハルミ/プロフィール
1965年6月24日生まれ。大阪府大東市出身。中学1年生時に本格的にバドミントンをはじめる。中学~短大までを過ごした名門・四条畷学園では、高校2年生時に日本一の座を手に入れたのを皮切りに、卒業までその座を守り抜く。卒業後、所属した三洋電機ではケガに苦しむことが多かったが、2年半のリハビリ生活を経た88年。復帰戦となった全日本社会人大会で優勝し、劇的な復活を遂げる。以降もコンスタントに結果を残しながら、92年のバルセロナ五輪への切符を手に。同大会への出場後引退した。現在は『ヨネックスアドバイザリー』スタッフ、『オリンピアンズ協会』『大阪市ゆとりとみどり「夢・授業」講師や『パナソニックジュニアバドミントンクラブ』のコーチングスタッフとして小中学生の指導にあたる。<岩城浩平オフィシャルブログ/http://pure-city.jp/kohei/index.html

vol.32 岩城ハルミ(元バドミントン選手)

橋本:バドミントンをする上で一番求められる能力は何ですか? やっぱりバネ?
岩城:バネは…確かに大切ですけど、飛び過ぎてもダメらしいんですよね。なんて言うか、バネといっても、ピョンピョンと飛び跳ねるようなバネは良しとされない。
岩城:それよりも地を這うようなフットワーク力の方が必要ですね。結局、ピョンピョン飛んでいるような人はバンっと打ち込まれたら終わりですから。もちろん、ジャンピングスマッシュとか部分的にバネが求められるプレーもあるけど、女子はそんなに使わないですしね。だから子供に指導する時も、ピョンピョンと跳ねてプレーする子には跳ねないように注意します。実際、プレーしてみたら分かると思うのですが、バドミントンは上に跳ねるというより、すり足で前に飛ぶ感じですからね。そういう意味では足の指先の強さ…特に親指の強さは求められる。特にバドミントンは、前に行って、すぐ後ろに戻るっていうような前後の動きが多いだけに、グリップ力というか、親指の強さが必要になる。実際、そういう動きに強い子は裸足を見たら分かりますよ。足の5本の指がしっかり開ける子は、地面を捕まえる力もある。
橋本:(足の指を開いてみせて)僕、どうですか?
岩城:結構、いい指をしています(笑)。やっぱり利き足の右の方が指が開いていますね。でも、競技性からしてプロサッカー選手はみんなある程度、グリップ力があると思いますよ。
橋本:良かった。褒められて(笑)。
岩城:あと…これは能力とは違うかもしれないけれど、やっぱり練習量と強さは比例すると思います。これはどのスポーツでも同じだと思いますけどね。実際、私も練習量だけは負けないというか…走り込みも、かなりやってきただけに、やっぱりそこが基本だと思ってしまう。だからこそ、今、サッカーをしている息子たちにも、そこを強調したいんですが、無理矢理やらせたくもないし、本人たちが感じなければ意味がないので、そこは我慢、我慢で(笑)。
橋本:やっぱり自分が育てられてきた過程を間違いじゃないと思える人は、指導者になってもそれを受け継いで行くところってあるんでしょうね。ハルミさんが「やっぱり練習量だ」と言い切れるのも、それでご自身が結果を出してきたからだと思いますしね。

岩城:それはあるかもしれません。それに…世界で勝つためには、そういう日本人的なプレースタイルが絶対に必要というか。走り込むことによって身につけたエネルギー、メンタリティが日本人選手の武器になるし、海外にも通用する要素にもなると思いますから。だからこそ、私はその部分を強調したいというか。バドミントン界もいろんな意味で変化をしている中で、新しいことを取り入れることは決して悪いことじゃないとは思うんですよ。でも、それはあくまでもベースを大事に考えた上でのプラスアルファの部分であって、全くもって日本人独特の武器を排除してしまったら、絶対に世界では勝てない。そう思うからこそ、自分の指導では走り込みもさせるし、厳しい練習もやらせます。
橋本:言っていることはすごく分かります。僕もどちらかと言えば、厳しい育ち方をしたというか…ジュニアユース時代もユース時代もとにかく走り込みが多かったけど、今はどちらかと言えば科学的なトレーニングになっている、と。それによって技術は巧い選手も増えたけど…なんていうか、例えば下部組織からトップに昇格して来た選手って、そろいも揃ってゆる~い感じなんですよね(笑)。才能も技術もすごいけど、でも緩い。稀に宇佐美貴史(バイエルン)のような選手もいますけど、彼が海外に行けたのは、結局、個人的に負けず嫌いな面を強く持っていたからだと思うんですよね。つまり、下部組織にいて鍛えられたものというより、持って生まれたもので、それがベースにあった上で技術を身につけられる環境があったから成長できた。ただ、最近の下部組織出身の選手にはなかなかそういう気持ちの強さを持った選手はいないというのが正直な印象ですね。事実、それを証明するように、今、海外でプレーする選手の殆どが高校サッカー出身の選手ですからね。彼らにはそういうメンタル的な強さがあるから海外の環境でも戦える強さがある。日本代表を見ていてもそうですよ。例えば、02年の日韓大会の時は、ユース出身の選手が 2~3人いて、それが10年の南アフリカ大会で増えたのかと思いきや、全く増えてなくて、下部組織出身の選手は確か3人だけでしたからね。考えてみたら、 Jリーグも20年の歴史があるというのに、結局、ワールドカップや五輪に出ているのは、高校や大学出身の選手が殆どですから。そのことをどう考えるかですよね。近年、下部組織からプロになる選手を見ていても、絶対に技術や才能は目に見えて高いのに、そこからどれだけ頑張れるかとなれば…なかなか結果が出せない。それはやっぱりメンタリティの問題だと思う。高校や大学でいろんな経験をしてきた選手に逆境に打ち勝っていける強さがあるのに対して、下部組織出身選手は、能力は高いのにそれがない。まぁ、僕も下部組織出身だし、下部組織を否定する訳ではないけど、いずれにしても、やっぱりメンタルを育てることを考えなければいけないとは思います。
岩城:そこは絶対に必要だと私も思います。でも、それって教えられない部分でもあるから難しいんですよね。いくら大事だと言っても、本人が自分で感じ取ることができなければ本当の意味での強さは身に付かない。プレーなんて、一瞬一瞬のことで、その都度、誰かからアドバイスをもらえる訳ではないですからね。
橋本:その通りだと思います。ただ今の日本の教育を見ていると、競争をさせないことをヨシとする傾向にありますからね。それは大きな問題というか。運動会でも順位をつけない学校があるって聞いたけど、そんなことは絶対に考えられない! 結局社会に出れば順位付けされるし、どんな会社に入っても仕事ができなければ給料はあがらないし、昇級もないという現実があるのに、子供時代にそういった競争意識を植え付けないなんてことをしていたら、社会に出た時に間違いなく脱落してしまう。
岩城:私もそれは本当に同感です! 急に競争しろと言われて、できるものではないですからね。子供の時から厳しい競争をかいくぐってこそ、培われるものは絶対にある。それに競争があるから、それにともなって『勝ちたい』という気持ちが芽生えるだろうし、だから練習しよう、考えようってことになるはずですからね。ただもちろん、そうはいってもメンタル、メンタルばかりでもいけないし、時代の流れを汲んだ中で、私たち指導者も学ばなければいけないところも絶対にあるとは思っています。

橋本:単にスポーツをするだけでも楽しさを覚えられるかもしれないけど、そこに勝ち負けがあってこそ、楽しさが増すことも間違いなくありますからね。実際、ハルミさんもそうだったと思いますが、勝つことの喜びがプラスに働いて結果を残せている人もたくさんいる訳ですから。ただハルミさんのように、そういうスパルタの中で頑張った先に、例えば五輪出場とか、結果が残せた人はいいけど、逆にそうじゃなかった人が指導者になった場合は、自分が育てられてきたことと全く逆のことをする可能性はあると思うんですよね。っていうか割合で考えればきっとそっちの方が多い。もしかしたら、だからこそ、競争させることをしなくなっているのかも知れないし…難しいですね。
岩城:自分のことなら自分が頑張ればそれでよかったけど、誰かを教えるというのは、本当に難しいなと思います。中学時代、私が先生に言われたように、可能性のある子供たちに対して「頑張れば日本一になれるチャンスがあるよ」ってことを言ったところで、それが間違いなく子供の心に響くとも限らないですしね。ただ、そこは指導者になった以上、私も逃げずに取り組んでいかなければいけない部分だと思っているので、粘り強く教えていくしかないとは思います。
橋本:ハルミさんご自身は、そういう負けん気の強さをどの時代に一番培ったと思いますか?
岩城:う~ん…基本は持って生まれたものというのも大きいかな。振り返れば、小学生の時から例えば走ることをひとつとっても、競り合うとゴールの手前で横の人に肘をいれてでも勝ちたいみたいなタイプでしたから。しかも、無意識に(笑)。
橋本:運動神経は総体的に高かったですか?
岩城:いや、高くないです。基本的にはバドミントン以外のことをやると絶対に一番にはなれないタイプだったから。ただ…稀に優れているものもあるんですけどね。
橋本:それは?
岩城:ボウリング(笑)。あと水泳もできる方かなあ。
橋本:ボウリングのスコアはどれくらいですか?
岩城:250くらいだったはず…。
橋本:え~っ?! それ、かなりの腕前ですけど!
岩城:以前、主人がセレッソ大阪に務めていた時代に行われたボウリングの家族対抗戦に参加したことがあって。周囲の方にはオリンピック選手だっていうことを言っていなかったから、かなり驚かれました。
橋本:でも逆に、その場で「私オリンピックに出たんです」と言われてもビビりますけどね(笑)。
岩城:あ、でもボウリングくらいで、他は全然ダメですよ。跳び箱とかも全然飛べなかったし…。
橋本:跳び箱?!その競技が出てくるあたりが“体育館競技”育ちだなっていう感じがしますね。僕なんか殆どの時間を屋外にいた選手は、絶対に跳び箱なんて発想がないから(笑)。ちなみに、バドミントンではどんな技というか、プレーを得意としていたんですか?
岩城:私が得意だったのは…カットって分かります? シャトルの羽根の部分をこするように叩くというか…しかも、緩くなら誰でも打てるんですけど、私の場合はかなりの全力で切っていく分、ストンと落ちるので、殆ど誰もとれなかった。
橋本:シャトルの羽根の部分を打っていいっていうこと自体を今、初めて知りました(笑)。でもあそこを打つとなれば…想像するに、結構勇気がいりますよね?!
岩城:そうなんです。なかなか思い切れる人は少ないと思います。シャトルの堅いところを打つのと同じ感覚で羽根の部分を切るわけですから。
橋本:あのバドミントンのシャトルの速さってどのくらいなんですか?

岩城:初速は男子で330キロ、女子で270キロくらいかなぁ。初速っていうのはつまり、当たった瞬間のスピードですが、球技の中ではおそらくバドミントンが一番速いはずです。しかも、見た目の速さと実際の速さは人によっても違うというか。身体の入れ方で全然変わってきますからね。例えば、身体を入れずに手だけでパンっと打つ人って、そのスピードが相手に届くまでに失速してしまうんですが、しっかり身体を入れて打っている人はスピードが失速せずに相手の懐まで食い込んでいきますからね。だからパッとみたら巧くても、実際に球を受けたらそうでもない、っていう選手は結構います。
橋本:野球みたいですね。野球のピッチャーもスピードの速い選手はいろいろいるけど、球の伸びが人によって全然違うって言いますからね。じゃあ、視力はいいですか?
岩城:動体視力はすごいと思います。自分では気づかなかったけど、普段の生活の中で蚊を捕まえるのもすぐにパンッと一発でしとめられますから(笑)。
橋本:すごい…ある意味、技ですね(笑)。

取材協力/dieci
text by misa takamura

岩城ハルミ/プロフィール
1965年6月24日生まれ。大阪府大東市出身。中学1年生時に本格的にバドミントンをはじめる。中学~短大までを過ごした名門・四条畷学園では、高校2年生時に日本一の座を手に入れたのを皮切りに、卒業までその座を守り抜く。卒業後、所属した三洋電機ではケガに苦しむことが多かったが、2年半のリハビリ生活を経た88年。復帰戦となった全日本社会人大会で優勝し、劇的な復活を遂げる。以降もコンスタントに結果を残しながら、92年のバルセロナ五輪への切符を手に。同大会への出場後引退した。現在は『ヨネックスアドバイザリー』スタッフ、『オリンピアンズ協会』『大阪市ゆとりとみどり「夢・授業」講師や『パナソニックジュニアバドミントンクラブ』のコーチングスタッフとして小中学生の指導にあたる。<岩城浩平オフィシャルブログ/http://pure-city.jp/kohei/index.html

vol.31 岩城ハルミ(元バドミントン選手)

橋本:高校卒業後、短大でも日本一の座を譲ることなく、三洋電機バドミントン部に入部されました。大ケガをされたのはその頃でしたよね。
岩城:そうです。しかも三洋電機に入ってすぐでした。最初は右のスネあたりの疲労骨折だったんですけど、基本的に痛みに強かったし、最初は「なんとなく痛いな~」って感覚で一気に痛くなる訳じゃなかったから耐えていたんですけどね。
橋本:分かります。僕もスネの疲労骨折は経験がありますけど、確かに最初は耐えられる状態でしたからね。ただ、だんだん痛くて走れないという状況になって。普通の生活に戻ったら楽だった分、最初は騙し騙しやっていたけど、そうもいかなくなってきたから、結局休みました。

岩城:本当はそれが理想というか… 早い段階で休めればいいんですけどね。実際、私もそうしていたら、あそこまでひどくなるケガではない…って後から主人に聞いたんですけど。でも当時は、そういうトレーナーさんも身近にいなかったこともあって歯止めがきかなかったし、そもそも、当時は全日本メンバーにも選ばれていたこともあって、とにかく我慢しながらやっていたんです。当時、痛みがとれる湿布みたいなのが流行っていたんですけど、私もそれを貼って(笑)。そしたら、だんだん悪化して、疲労骨折しているヒビのところが墨のように真っ黒になっちゃって。観念して病院に行ったら、先生に骨が壊死してしまっているような状況だと言われてしまった。で、このままでは絶対にダメだからと、そこの骨をとって、自分の別のところから骨を移植させる手術に踏み切ったんです。ただ…手術したのが6月だったんですが、その3ヶ月後の9月にアジア大会が控えていましたからね。そこにどうしても出たいという思いから急ぎ足で復帰しようとリハビリをしていたら、逆に悪化してしまって。それでも1年くらいは試合に出続けたんですけど、痛みを感じながらプレーしているので全然、結果が出ない。そもそもバドミントンは瞬間的なスポーツというか。特に私はシングルプレーヤーだったので自分が動かなければ結果が出ないのに、スネに痛みがあるから飛べないし、思うようなプレーもできない。最悪でした。
橋本:そういう状態でも、休むという判断ができなくて、突っ走ってしまった、と。
岩城:そうですね。今の時代ならトレーナーにしっかり判断してもらって…ってなるんでしょうけど、当時はそういう環境も整っていなかった分、自分の判断が全てでしたからね。自分でセーブして「ここまでやったらやめよう」ということも出来ず、どこまでもやっちゃう感じで、そうなるとどんどん自分を痛めつけてケガを悪化させてしまうという状況だった。しかも、全日本からも外れてしまって、完全な悪循環ですよね。という状況もあって、手術から1年後くらいにもう一度病院に行ったら、今度は移植した部分の周りの肉もなくなってしまい、かなりの範囲が腐ったような状況になっていて「ここまでひどくなってしまったら、もう代表レベルへの復活は難しい」と言われてしまった。実際、利き足だっただけに、この足がダメとなるとジャンプが出来ないし、踏ん張りもきかないですからね。ただ、それでも自分としては、やれている頃の自分の姿が頭に残っていて諦めがつかない。それもあって三洋電機から離れて自分で治していこうと決めたんです。
橋本:三洋電機から離れるとは?
岩城:一応、所属していることにはなっていたけど、チームとしての活動の一切を休ませてもらいました。というのも、チームに所属しているとどうしても、自分のペースでは治せないから。だからそこから抜けて、自分で出来る限りのことをやってみた。阪大でリハビリをしたり、東京の慈恵医大で診てもらったり。
橋本:手術ももう一度したんですか?
岩城:いえ、手術はしていません。いろんな病院で診てもらった結果、そのままの状態で、今ある細胞を活かしながら治していこうという方針になったので。ただ、それでも完全には戻らないと言われていたんですけどね。当時、先生にとってもこういう症状は例がなかったこともあって、予測しきれないところもあったと思うんですけど。
橋本:治療に専念した甲斐があって、結果的に復帰された訳ですが、復活まではどのくらい時間を要したんですか?
岩城:騙し騙しやっていた最初の1年も含めて、2年半ですね。年齢でいうと、21才からの2年半ですから、バドミントン選手としては一番ピークの時だった。実際、社会人になってすぐの大会でも、北田さんっていう強い先輩とダブルスを組んで世界大会で3位になったりもして右肩上がりの状況の時にケガが発覚したので、ケガがなければ…と何度思ったか分かりません。
橋本:全日本レベルの選手でも、当時はまだケガの治療に対する環境は整っていなかったのですか?
岩城:そうですね。当時、各社会人のクラブを見渡しても、トレーナーがいるチームは静岡のヤマハくらいでしたから。だから基本的には個人で対処するというか。自分が痛いと思ったり、悩みがあれば接骨院にいく、みたいな感じでした。
橋本:しかも、女性って男性以上に追い込むらしいですね。だからトレーナーやドクターが止めないと、自分で止められないって話を聞いたことがあります。

岩城:確かにそれはあるかも。まぁ、止められたところできっと止まらないから、これまた厄介なんですけど(笑)。基本的に女性は痛みに強いからかも知れませんね。でも結局、私が失敗しているのは全部そこですから。我慢すればひどくなるのは分かっているのに、繰り返してしまった。ただ、その2年半の間に、自分自身はかなりいろんなことを感じられたし、いろんな人に出会えて、アドバイスもいただいたのはすごく大きかったというか。復帰後、ケガをしても…といってもそこまでのケガではなかったけど、でも、ケガに対する自分の気持ちのゆとりも全然違ったし、いま、自分が指導者として子供たちに教える上でも、そうした自分の悔しい経験はすごく役立っていますからね。もし私がケガも何もなく順風満帆に結果を残して来た選手なら言えなかっただろうな、と思うことも自分の言葉で伝えることができる。それはあの2年半の経験があったから…って今なら思えるけど、当時はそこまで余裕はなかったかな。
橋本:察するに、その2年半はおそらくいろんな葛藤との戦いだったと思いますが、それでもバドミントンをやめなかった理由は?
岩城:やっぱり全日本への拘りかなぁ。単にバドミントンをしているだけならそこまで必死に復帰しようと思わなかったかもしれないけど、とにかく全日本に戻りたいという気持ちがあったから、頑張れた。バドミントン界の全日本は、またサッカー界の日本代表とは少し違うのかもしれないけど、でも、背中に『JAPAN』という文字を背負っている感覚が…企業名ではなく『JAPAN』を背負っている感覚が私には何にも変えられない喜びだったんですよね。だからこそそこにもう一度戻りたかった。
橋本:国を背負った戦いですからね。分かる気がします。
岩城:でも、サッカー界をみてもそうですが、今の若い選手って凄いですよね。代表とか国を背負うっていうことを…もちろん、気持ちとしては背負っているんだろうけど、そんなにも表に出さない。あれってすごいなぁって思います。私もそんな風な感覚で『JAPAN』を背負えていたらもう少し世界の舞台でも結果を出せたのかなって思いますしね。でも世界に出れば、やっぱり日本では見えないこともたくさん見えてくるし、本当に世界の大会は楽しかった。
橋本:世界大会と言えば、ハルミさんが出場された92年のバルセロナ五輪ですが、その話を聞く前に、ケガから復帰後、どんな風に全日本に戻ることができたのかを聞かせてもらえますか?
岩城:社会人になって最初の1年は、試合には出ていたけど自分が全くできない状態で、試合をしてもすぐに負けていたから優勝なんてとんでもなくて。周りからも「あんな試合をしているようじゃあ、鴻原はもう終わりや」って言われ続けて過ごし、そのあと1年半は全く試合をせずに、ある意味、ケガを治すことに専念して過ごして。その間は「もう一度全日本に復帰したい」という一心でしたけど、正直、1年半も実戦から離れていたら半信半疑のところもあるじゃないですか? そしたら、復帰戦となった全日本社会人大会で、優勝したんです。復帰する半年くらい前から足の状態は目に見えてよくなってきたというのはあったんですけど、でもまさか優勝できるとは思ってもいなかったので自分でもびっくりしました。
橋本:足の調子が良くなり始めた半年間に、一気に調子を取り戻したということですか?
岩城:正確に言うと、休むと決めた1年半のうち、最初の半年が過ぎた段階で少しずつ骨の周りに肉がつきはじめて。「もしかしたから回復するかも」っていう兆しが見えたんですよね。そのあたりから、徐々にイメージトレーニングとか軽いトレーニングを始め、1年くらい経った時にようやく走り始めた。つまり、半年くらいかけて基礎的なトレーニングを始めて、バドミントン自体は1年くらい経ってから本格的に打ち始めたんです。でも厳密には復帰戦はそこから3ヶ月後くらいでしたからね。最初は出場するかどうかを迷っていたくらいなんですけど、結果的に「出てみよう!」と思って出場したら優勝した、と。そのことは自分が復帰する上でのかなりの自信にもなりました。しかもその4ヶ月後の1月にジャパンオープンという世界選手権があったんですが、準々決勝で当時の世界チャンピオンだった中国人選手と対戦したんですよね。そしたら、もう少しで勝てるっていうくらいの試合ができて。そのことによって更に自信を強めることができました。
橋本:え?!世界チャンピオンと対等に渡り合ったっていうことですか?
岩城:一応…でもその人には短大時代の自分が一番ピークだった時に、勝ったことがあったんですよね。その時は、その人がそんなに凄い人とは知らず、何も考えずに試合をしたら勝ってしまって。周りからはかなりびっくりされて不思議に思っていたら、後からその子が相当強い子で、殆どの選手が全くといっていいほど歯がたたなかったと聞いた(笑)。という経験があった分、相手もやりにくかったのかもしれないですけどね。結果的に1セット目を獲り、2セット目を負けて、3セット目は8-8までいったけど、最後ポンポンと3点を獲られて負けてしまったんですが、自分としては「そこまで追いつめることができた」という手応えがあったし、その後、全日本にも復帰しましたからね。それがちょうど1988年でした。
橋本:その結果も、92年のバルセロナ五輪出場のための選考ポイントになったんですか?
岩城:いや、その時はまだですね。五輪代表は90年の試合からランキングがポイントでカウントされることになっていて…だから私もそのタイミングで東京に行きました。というのも、三洋電機はもともと実業団をメインに考えているチームだったため『五輪』というビジョンは持っていなくて。つまり実業団の団体戦に重きを置いていた分、海外の大会には出場していなかった。それはイコール、ランキング争いが出来ないということですから。それもあっていろいろ悩んだ末に東京に行こう、と。もちろん、大きなケガをして復帰させてもらった恩はすごく感じていたけれど、五輪に出たいという目標がありましたからね。それで、東京の尚美学園という学校で指導者をしながら五輪出場を目指すことにした、と。その尚美学園は、当時、社会人の選手を受け入れるのは初めてで、所属選手も私だけだったんですが、大学にバドミントン部を作りたいというビジョンを持っておられたので、そのサポートをする役割も含めて面倒をみていただいたんです。
橋本:所属が一人なら練習はどうするんですか?
岩城:当時NTT東京っていうのが一番強かったんですが、当時、陣内貴美子さんなど東京を拠点にプレーしている選手はみんなそこに集まって一緒に練習をしていたんですよね。つまり、所属のヨネックスでの練習もやりながら、プラスアルファの練習としてそこで練習をする、という感じで、全日本の監督やコーチもみんなそこに来てくれていました。なので、私も尚美学園に所属をしながらも、練習はそこで…つまりはレベルが高い人たちが集まっている中でやることが出来たんですが、言うまでもなく練習内容はすごく濃かったし、そこでの時間が自分を鍛える上ではかなりのプラスになりました。

橋本:そう考えると東京へ行く決断は、後の人生にも相当、影響したということですね。実際、90、91年の大会で結果をしっかり残せたことが、五輪への切符にも繋がったんでしょうしね。
岩城:そうですね。ただ、本当にスケジュール的にもハードだったし、ランキングも1試合ごとに変わるような状況で、いろんな意味でプレッシャーもありましたけどね。ただ自分としては、最後の勝負だと思って東京に乗り込んでいましたから。心が折れるようなことはなかったです。
橋本:ポイントの対象になる大会は決まっていたんですか?
岩城:海外の試合は全て試合ごとにポイント数が決まっていました。分かりやすく大きな大会はポイントが大きく、小さい大会はポイントが小さいって感じです。
橋本:そうなると、海外試合といえども、結局は日本人同士の対決になるのでは?
岩城:基本的に、全日本の選手はポイントの大きな同じ大会に出ることが多いですが、強い海外選手もポイントの高い試合に出てくるので、日本人選手同士が対決することは殆どありません。ただ、ポイントの小さい試合では強い選手が出て来ないこともあり、日本人選手同士が対決することはあります。
橋本:確かバドミントンはバルセロナ五輪から正式競技になったんですよね?『初めて』という部分で難しさを感じたところはありましたか?
岩城:確かに初めてがゆえに、選考の時点でポイント換算のミスがあったり、いろんな問題が起きて…正直、大変なことも多くて気持ち的に苦しんだ面はたくさんありました。
橋本:バルセロナ五輪には何人、出場できたんですか?
岩城:シングルが2人で、ダブルスは2組。これはシングルスとかぶらないので、全部で6人です。これは男子も同じでした。
橋本:バルセロナ五輪で初めての正式種目になったってことは、五輪に対する知識がないまま挑むってことですよね? それって大変だったのではないですか?
岩城:確かに出てみなければ分からないことはたくさんありましたからね。ただ、実際に行ってみて普通の世界大会とは全然違うんだなという空気はすぐに感じました。世界的にも強いと言われている選手が尋常じゃないプレッシャーを感じていたし、選手によっては震えたりしている人もいて…やっぱり1本1本のプレーに対する重みが違うんだな、と。その時に初めてやっぱり五輪は特別な、凄い大会なんだなと感じたところはあったと思います。

取材協力/dieci
text by misa takamura

岩城ハルミ/プロフィール
1965年6月24日生まれ。大阪府大東市出身。中学1年生時に本格的にバドミントンをはじめる。中学~短大までを過ごした名門・四条畷学園では、高校2年生時に日本一の座を手に入れたのを皮切りに、卒業までその座を守り抜く。卒業後、所属した三洋電機ではケガに苦しむことが多かったが、2年半のリハビリ生活を経た88年。復帰戦となった全日本社会人大会で優勝し、劇的な復活を遂げる。以降もコンスタントに結果を残しながら、92年のバルセロナ五輪への切符を手に。同大会への出場後引退した。現在は『ヨネックスアドバイザリー』スタッフ、『オリンピアンズ協会』『大阪市ゆとりとみどり「夢・授業」講師や『パナソニックジュニアバドミントンクラブ』のコーチングスタッフとして小中学生の指導にあたる。<岩城浩平オフィシャルブログ/http://pure-city.jp/kohei/index.html

vol.30 岩城ハルミ(元バドミントン選手)

橋本:中学3年で全国3位になった時から、本当は日本一になりたかったっておっしゃっていましたが、目標は常に日本一だったのですか?
岩城:そうですね。中学の時に先生に言われた「頑張れば日本一になれる」っていう言葉を信じて、ずっと日本一になりたいって思いはありました。
橋本:その夢が叶ったのは?
岩城:四條畷学園の2年生の時です。あの時は運もあったと思います。
橋本:岩城トレーナーから小耳に挟んだのですが、なんでも決勝の相手は同じ高校の先輩で、しかも相手に1点も与えない完勝だったとか…伝説らしいですね。

岩城:はい…そうなんですよ。でも本当に2年生の時の優勝は運もあったと思います。当時、凄く強いと言われていて、私も勝ったことのなかった人が試合の途中に脱臼して救急車で運ばれたり、他にも強い選手がねん挫をした状態で試合に出ていたり。そんな中で私はトントンと勝ち上がることができた。その決勝では、同じ高校の3年生と対戦したんですが、その先輩とは普段の練習から常に競り合っていたし、どちらが勝ってもおかしくないっていうような力関係だったんですけど、私としては後輩だし、ある意味、怖いものなしだったんでしょうね。そしたら、結果的に1点も与えずに勝ってしまった。今の時代はラリーポイント制で試合が行われるので『0』というのはまずあり得ないと思うけど、当時は、サーブ権のある方にしか得点が入らなかったこともあり…といっても、決勝まで勝ち進むような選手同士の対戦で『0』はおそらくそうないでしょうけどね(笑)。実際、試合が終わった後も周りから「先輩に対していくらなんでも0はないやろ」って言われましたしね。でもその時は本当に1ラリー、1ラリーが無心だったし、「1点獲られることによって展開が変わってしまうかも」という危機感もあった分、絶対に最後まで気が抜けないと思ってプレーしていたら、完勝だった。実際、2セットとも11-0で勝ったことには、終わってみて初めて気がつきましたからね。つまり、意識して「0で倒そう」と思っていた訳では決してない、と。まぁ、もともとの性格的にあまり周りのことを気にしないタイプですから(笑)。
橋本:まさに『鈍感力』ですね。それはある意味、必要かも。特に個人競技ですしね。
岩城:確かに、後になって考えると『鈍感力』は備えていたかもしれない。
橋本:で、念願の日本一はめっちゃ嬉しかったんですか?
岩城:めちゃめちゃ嬉しかったです。だって日本一ですからね。サッカーでも日本一はやっぱり違うでしょう?

橋本:確かに嬉しいですね。ただ、個人と団体競技とでは感覚が違うかもしれない。個人競技は基本的に自分の力だけで勝てるけど、サッカーはそうではないですからね。ただ、その分、自分の能力が足りなくても、優勝する可能性を探ることができる。そう考えると個人競技はハイリスク、ハイリターンなんだろうけど、でも優勝したら全部、自分の手柄ですからね。そりゃあ、嬉しかったでしょう!
岩城:ただ…相手が先輩だけにそこまでおおっぴらに喜べない部分もあって。
橋本:試合中は『鈍感力』を働かせていたのに、そこは気にしていたんですね(笑)。ちなみに、性格的には個人競技向きだと思いますか?
岩城:そうですね。実際、間違いなく、サッカーなどの団体競技には向いていないと思う。だって、私、協調性がないですから。周りのことが全然見れないタイプというか…バドミントンのコートくらいしか見えないっていうくらい視野も狭いですしね。確かに、バドミントンにも団体戦はあるけど、基本は自分ペースですからね。実際、他の選手が試合をしている間に、自分はウォーミングアップを始めて…っていう感じで、殆ど他の選手の試合は見ていないし、団体戦といえども、要は自分は勝てばいい訳だから結局は、個人戦と同じなんですよね。だから…やっぱり私は個人競技向き。主人にサッカー界の話を聞いても、つくづく自分はサッカー界では生きられないと思います。
橋本:団体競技の中で生きて来た人と、個人競技の中で生きて来た人が夫婦になってもうまくいくんですね?
岩城:いや、うちは主人だからうまくいくんだと思います。私って本当に協調性がないらしくて。しかもそれが当たり前だと思って生きて来たけど、主人に言わせれば『全然、普通じゃない』らしい。実際、家族の中で暮らしていても、結構、ワンマンですから。
橋本:まさか、みんなで遊びに行っても、一人で行動するとか?!
岩城:それはありますね。みんなで出掛けているのに、一人でブラッと行動してしまったり、一人だけ先にご飯を食べていたり、自分がしたいと思ったら、すぐにしてしまう。それに…例えばいろんなケーキがあって、ジャンケンで選ぶ順番を決めようとなった時も、主人は参加しないけど、私は「お母さんも、これが絶対に欲しい!」と言って本気で参加しますから(笑)。そのせいか、3人の子供たちは、お父さんのことは絶対的存在として見ているけど、私のことは…自分たちよりちょっと上くらいにしか見てないと思います。
橋本:あれ?!岩城家はハルミさん入れて、実は子供が4人(笑)?!
岩城:そうかも。子供たちが主人にダメだって言われたことも、私がしたいとなれば子供と一緒になってやっちゃったりもしますしね。
橋本:夫婦の話をもうちょっと聞きたいところですが、それは後から聞くとして話を戻します。高校2年生の時に念願の日本一になって以降の成績はどうだったんですか?

岩城:短大を卒業するまでずっと日本一でした。やっぱりそれは、高校2年生で日本一になれた経験が大きかったと思う。その時以来、自分の中で「絶対に負けられない。どんな強い相手でもここで負ける訳にはいかない」って思いがすごく強くなりましたからね。そう言えば、この間ちょうど昔の雑誌を見返す機会があって。当時の記録を見ていたら高校3年生時の決勝も、11-0と11-3だったし…殆どの試合を、相手には最小限の点数しか与えずに勝っているから、自分で言うのもなんですけど、当時は圧倒的に強かったんだと思います。
橋本:高校の先生が一番怖かったっておっしゃっていましたけど、それだけ強くてもハルミさんも殴られました?
岩城:殴られましたね。特に私はシングルは得意だったですけど、ダブルスが苦手で。ダブルスでは二人の間に球を落とす“お見合い”が一番、許されないミスなんですよね。なのに、しょっちゅう落とすもんだから、それを理由に殴られることは結構ありました。いつだったか試合の1週間前の練習で、身体が吹っ飛ぶくらい殴られて。顔に痣を作って試合に臨んだこともありました。
橋本:ダブルスが苦手ってことは…やっぱり協調性がないんですね?
岩城:間違いないと思います。
橋本:ちなみに、日本一を実現してからも目標は常に日本一だったんですか? 世界一、という風には切り替わらなかった?
岩城:バドミントン界では当時、中国がダントツに強くて。もちろん、気持ちとしては何とか勝ちたいとは思っていましたけど、あまりにもレベルの差がありましたからね。だからこそ、世界一になりたいというよりは、打倒・中国というか。中国人選手を相手にしても、通用する選手になりたいという思いが強かったように思います。

取材協力/dieci
text by misa takamura

岩城ハルミ/プロフィール
1965年6月24日生まれ。大阪府大東市出身。中学1年生時に本格的にバドミントンをはじめる。中学~短大までを過ごした名門・四条畷学園では、高校2年生時に日本一の座を手に入れたのを皮切りに、卒業までその座を守り抜く。卒業後、所属した三洋電機ではケガに苦しむことが多かったが、2年半のリハビリ生活を経た88年。復帰戦となった全日本社会人大会で優勝し、劇的な復活を遂げる。以降もコンスタントに結果を残しながら、92年のバルセロナ五輪への切符を手に。同大会への出場後引退した。現在は『ヨネックスアドバイザリー』スタッフ、『オリンピアンズ協会』『大阪市ゆとりとみどり「夢・授業」講師や『パナソニックジュニアバドミントンクラブ』のコーチングスタッフとして小中学生の指導にあたる。<岩城浩平オフィシャルブログ/http://pure-city.jp/kohei/index.html

vol.29 岩城ハルミ(元バドミントン選手)

橋本英郎(以下、橋本):今日はお忙しいところありがとうございます。いつも旦那さま(注:ガンバ大阪トレーナー、岩城孝次氏)にはお世話になっている上に、こうしてお家まで押し掛けてしまってすいません。
岩城ハルミ(以下、岩城):いえいえ、息子たちもサッカーをしているので、息子ともどもこうして来ていただいてすごく喜んでいるんです。ただ、私で対談が成立するのかが不安です(笑)。私、結構、抜けているところがあって…子供たちにもよく突っ込まれるんですよ。
橋本:今はパナソニックのバドミントンチームで子供たちの指導にあたられているんですよね?
岩城:そうです。今年の4月づけで三洋電機株式会社がパナソニック株式会社の子会社になったことに伴い、『三洋電機バドミントンチーム』が『パナソニック バドミントンチーム』に名称が変更になったんですよね。それにあわせて私が指導していた『SANYO ジュニアバドミントンクラブ』の名称も『パナソニック ジュニアバドミントンクラブ』になり、今はそこで指導にあたっています。
橋本:ガンバ大阪もパナソニック株式会社がメインスポンサーだけに、家の中では過ごしやすくなったのではないですか?
岩城:私は現役時代、三洋電機の選手だったので、ユニフォームの色も赤から青に変わったり、企業スポーツとしてのいろんな取り決めの部分で、なんとなく違和感を感じるところもありますが、家の中では動きやすいというか。パナソニックのことも主人がよく理解している分、教えてもらえることも多くて助かっています。そう言えば、今回、対談させていただくにあたり、昨日初めてHPを拝見させていただいたのですが…といいつつ、読み過ぎたらプレッシャーになる気がしてあまり読んでいないんですけど(笑)。
橋本:(笑)。大丈夫ですよ。いつも行き当たりばったりの対談ですから、気楽に話してもらえれば嬉しいです。
岩城:いつもなら主人が横でいろいろとアドバイスをしてくれるんですけど、今日は私だけなので…言ってはいけないことまで話してしまいそうで、やや不安です。
橋本:じゃあ、岩城トレーナーが帰宅されないうちに、たっぷりいろいろとぶちまけてもらいましょうか(笑)。そういえば、岩城トレーナーとご結婚されてから名前をカタカナに変えられたんですね~。バドミントン選手として活躍されていた頃は、鴻原春美さんでしたよね?
岩城:そうなんです。結婚する際に姓名判断をしてもらって、名前をカタカナにしました。
橋本:姓名判断とか占いを信じる派ですか?
岩城:何でもかんでもは信じないけど…でも信じる方かな。名前を変えるといっても戸籍までは変えられないので、要は2つ名前を持っているような感じなんですけどね。人によっては全く違う名前にする人もいるらしいけど、私はそこまでは変えたくなかったので、いろいろと見てもらった結果、カタカナにしたんです。
橋本:サインがしやすいからいいですね(笑)。
岩城:(笑)。今では「自分の名前!」っていう感じがしてすごくしっくりきているし、幸せにも暮らせているので良かったです(笑)。橋本さんは、姓名判断や占いには興味はありますか?
橋本:ありますよ。姓名判断はしてもらったことがないけど、守護霊の話とかを聞くのは結構好きです。
岩城:スポーツ選手は結構多いですよね。私も、見てもらいすぎるのも、気にし過ぎてダメな気がするので、本当に大事な時だけ見てもらうようにしています。現役の時にケガで悩まされていた時なんかは、なんていうか…藁にもすがる思いで見てもらったこともありましたしね。
橋本:わかります。背中を押してもらいたいというか、ヒントが欲しいというか。全てを鵜呑みにする訳じゃないけど…まあ、自分の中だけでのきっかけみたいなものですね。ケガの話が出ましたが、その話を聞く前に、バドミントン選手としての輝かしいキャリアについて少し教えてもらえますか?

岩城:そんな大して輝かしくはないですよ!
橋本:いやいや、オリンピックに出場したというだけで十分輝かしいですよ!僕は縁がなかった大会なので。バドミントンを始めたのはいつですか?
岩城:本格的には中学1年からです。もともと、私は四条畷学園の附属の小学校に通っていたんですが、6年生時に特別活動でバドミントンをやる機会があって。その時に、中学のバドミントン部の先生の目に留まったらしくて。四条畷学園は中学、高校ともバドミントンの強豪校として知られる学校だっただけに、なんで私なんか…と思ったんですが、おそらく身体が大きかったからなのかなぁ(笑)。あとはその先生曰く「他の子に比べてバネがあった」と。自分ではよく分からないですけどね。
橋本:で、始めた途端にメキメキと頭角を表した、と。
岩城:中学3年生時にシングルスで全国3位になりましたね。
橋本:はやっ!やっぱり先生の見る目は間違ってなかった訳ですね…。
岩城:でも私としては優勝を狙っていましたから。結果的に優勝した選手と準決勝で対戦し、競り合った末に負けて3位になったんですけど、もう悔しくて、悔しくて。だから…当時からおそらく変わった子供だったと思うんですが…試合が終わったあと、体育館の観客席のところにあがって「今度は絶対に勝つ~~っ!高校に行ったら絶対に勝ってやる~~っ!」って泣きながら走って、叫んでいました(笑)。

橋本:え? 観客席にはまだ他の選手とか観戦者がいたんですよね!?
岩城:はい。
橋本:それは残念ながら、変わってますね(笑)。周りの目なんて全く気にしていなかったんでしょうけど。
岩城:ですね。自分が悔しい、という気持ちの方が大きくて、周りなんて全く見えていなかった。
橋本:でも本格的に始めたのが中学生からって、サッカー選手と比べてもそんなに早い方じゃないと思うんですが、バドミントン界はそんな感じなんですか?
岩城:いや、強い県は違いますね。例えば、陣内貴美子さんが育った熊本県も強豪として知られていますが、熊本県あたりは、小学3~4年生から本格的に鍛えられる厳しい環境がありますからね。その違いによる差は少なからずあると思う…っていうことを自分が大人になってから痛感しましたね。例えばサッカーでもボールタッチの柔らかさなんて、大人になってから身に付けようと思っても難しかったりしますよね?それと同じで、バドミントンも基礎技術を小学生の時にしっかりやっている子とやっていない子ではどうしても大人になった時に差が生まれてしまう。実際、私も、社会人でプレーしていく中ではもっとラケットワークがあったらな、って何度も思いましたからね。だからこそ、今、ジュニアの子供たちを指導するにあたっては、そのへんをきっちり教えたいというか。基礎技術をしっかり身につけた上で、大人になるにつれて身体ができてきて、パワーが出て来たら間違いなく伸びると思いますから。
橋本:ハルミさんの中学時代は、どのくらい練習をしていたんですか?
岩城:半端ないくらい練習は厳しかったし、練習量も多かったですよ。例えば、学校の側に飯盛山っていう山があったんですけど、最初のウォーミングアップでその山の中腹まで走らされるんですよね。往復で30~40分くらいだったかなぁ。しかも行きはかなり急な上り坂ですからね。殆どの選手が走り切れずに終わる、っていうくらいの状態でなんとか帰って来て、そこからまずは1000本ノックのようなことが始まって。時々500~600本で終わることもあるんですけど、いずれにしても最後は肩もあがらない、足もあがらない、っていうような状態になる。でもそれもあくまでアップ段階で、そこから更に大変な練習が待っていますから。そういうのを毎日、授業が終わって16~20時くらいまでやっていました。
橋本:休みはあったんですか?
岩城:テスト中と12月31日、1月1日、2日だけが休みでした。
橋本:今、ハルミさんが教えている子供たちも、そのくらい練習をするんですか?
岩城:本当に強くするためには、そのくらいやらないといけないんですけどね。ただ…なんて言ったらいいのかなぁ、今の選手は追い込まれている感じが全くない(笑)。私たちの時代は先生が厳しかったのもあったけど、1球のミスにかなりビビっている自分がいて。4時間の練習でも気を抜けるような時間は一切なかったし、気を抜こうものなら容赦なく竹刀で叩かれたり、殴られたりしましたからね。そういえば、当時、うちの父親がお風呂に入ろうとした私を見て、青痣だらけでびっくりしたらしくて。私が一切、そんな話を家でしないもんだから、余計に驚いたみたいです。もちろん、それも愛のある暴力だったと分かっていたので親も黙認していましたけど、今の子供たちは…暴力があるからないからの問題ではなく、いずれにせよ、追い込まれた中でバドミントンをやっている感じがないんですよね。時代かなぁ。
橋本:中学からバドミントンを始めても、そういう厳しい練習に最初からついていけたのですか?
岩城:ついていっていましたね。
橋本:そんなに厳しくても、楽しめていました?
岩城:いや、楽しくないです(笑)。だから一度だけ辞めようとしたこともありました。っていうのも、四条畷学園は中学、高校、短大のバドミントン部がみんな同じ体育館で練習をしていたんですけど、当時、高校の先生が一番厳しかったんですよね。で、ある日、横で練習をしていた高校の先輩がその先生に恐ろしいくらい殴られていて。鼻血が出ているのもおかまいなしに、まだ上から馬乗り状態で殴られていた。それを見て「あれは私には無理や。もう辞めよう」と思って、1週間くらい練習を休んだんですよ。そしたら、最初は冗談だと思っていた先生もこれはヤバいと思ったらしく、家に電話がかかってきて、うちの母親に「娘さんを練習に連れて来てください」と。それに、私を引き戻すためにいろんなことを言って母親を説得したらしく、今度はその母親に私が説得された。「苦しい時もあるかもしれないけど、頑張ったら絶対に日本一になれるからって先生も言ってくれているよ。だから頑張ったら?」って。それを聞いて、そうか日本一になれるんなら戻っても良いかな、と。単純ですけど、そういう言葉には間違いなく弱いですからね。結果的に、「あんなに殴られたら耐えられる自信がない」と思いつつ戻ったんですが、楽しかったと言われたら…う~ん、やっぱり楽しくはないかな。でも勝つ喜びは間違いなく感じていましたね。

橋本:スポーツにおいて『楽しむ』って表現はすごく難しいと思うんですよね。受け取り方によっては、真剣味が足りないってことにもなってしまいますから。例えば、サッカー界で日韓戦と言えば、お互いにライバル心をむき出しにした戦いになるじゃないですか? そういう試合で例えば、選手が「日韓戦を楽しんで戦います」って言うと、「日本を代表して戦うのに、楽しんでいる場合じゃないやろ」と受け取る人もいる。でも、決してその『楽しむ』は楽をするとか、本気じゃないということではなくて。強い相手とのせめぎ合いや緊張感、スリルというのかなぁ。1つのミスが命取りになるというような緊迫した状況の中での緊張感、ゾクゾク感を『楽しむ』っていう意味なんですよね。しかもそれがあるから普段の練習も頑張れるというか。少々辛いことがあっても、そういう『楽しさ』を知っているし、その楽しさは、高いレベルになるほど増していくから頑張れる。ハルミさんもきっとそういう感覚だったんでしょうね。
岩城:その通りですね。練習が楽しかったかと言えば、決して楽しくはなかったけど、でも、試合には自分が求めているものがあるから、そこから逆算して、楽しくない練習も頑張らないとアカンよな、っていう感覚は間違いなくありました。

取材協力/dieci
text by misa takamura

岩城ハルミ/プロフィール
1965年6月24日生まれ。大阪府大東市出身。中学1年生時に本格的にバドミントンをはじめる。中学~短大までを過ごした名門・四条畷学園では、高校2年生時に日本一の座を手に入れたのを皮切りに、卒業までその座を守り抜く。卒業後、所属した三洋電機ではケガに苦しむことが多かったが、2年半のリハビリ生活を経た88年。復帰戦となった全日本社会人大会で優勝し、劇的な復活を遂げる。以降もコンスタントに結果を残しながら、92年のバルセロナ五輪への切符を手に。同大会への出場後引退した。現在は『ヨネックスアドバイザリー』スタッフ、『オリンピアンズ協会』『大阪市ゆとりとみどり「夢・授業」講師や『パナソニックジュニアバドミントンクラブ』のコーチングスタッフとして小中学生の指導にあたる。<岩城浩平オフィシャルブログ/http://pure-city.jp/kohei/index.html