橋本英郎公式サイト「絆」
FRIENDS

vol.30 岩城ハルミ(元バドミントン選手)

橋本:中学3年で全国3位になった時から、本当は日本一になりたかったっておっしゃっていましたが、目標は常に日本一だったのですか?
岩城:そうですね。中学の時に先生に言われた「頑張れば日本一になれる」っていう言葉を信じて、ずっと日本一になりたいって思いはありました。
橋本:その夢が叶ったのは?
岩城:四條畷学園の2年生の時です。あの時は運もあったと思います。
橋本:岩城トレーナーから小耳に挟んだのですが、なんでも決勝の相手は同じ高校の先輩で、しかも相手に1点も与えない完勝だったとか…伝説らしいですね。

岩城:はい…そうなんですよ。でも本当に2年生の時の優勝は運もあったと思います。当時、凄く強いと言われていて、私も勝ったことのなかった人が試合の途中に脱臼して救急車で運ばれたり、他にも強い選手がねん挫をした状態で試合に出ていたり。そんな中で私はトントンと勝ち上がることができた。その決勝では、同じ高校の3年生と対戦したんですが、その先輩とは普段の練習から常に競り合っていたし、どちらが勝ってもおかしくないっていうような力関係だったんですけど、私としては後輩だし、ある意味、怖いものなしだったんでしょうね。そしたら、結果的に1点も与えずに勝ってしまった。今の時代はラリーポイント制で試合が行われるので『0』というのはまずあり得ないと思うけど、当時は、サーブ権のある方にしか得点が入らなかったこともあり…といっても、決勝まで勝ち進むような選手同士の対戦で『0』はおそらくそうないでしょうけどね(笑)。実際、試合が終わった後も周りから「先輩に対していくらなんでも0はないやろ」って言われましたしね。でもその時は本当に1ラリー、1ラリーが無心だったし、「1点獲られることによって展開が変わってしまうかも」という危機感もあった分、絶対に最後まで気が抜けないと思ってプレーしていたら、完勝だった。実際、2セットとも11-0で勝ったことには、終わってみて初めて気がつきましたからね。つまり、意識して「0で倒そう」と思っていた訳では決してない、と。まぁ、もともとの性格的にあまり周りのことを気にしないタイプですから(笑)。
橋本:まさに『鈍感力』ですね。それはある意味、必要かも。特に個人競技ですしね。
岩城:確かに、後になって考えると『鈍感力』は備えていたかもしれない。
橋本:で、念願の日本一はめっちゃ嬉しかったんですか?
岩城:めちゃめちゃ嬉しかったです。だって日本一ですからね。サッカーでも日本一はやっぱり違うでしょう?

橋本:確かに嬉しいですね。ただ、個人と団体競技とでは感覚が違うかもしれない。個人競技は基本的に自分の力だけで勝てるけど、サッカーはそうではないですからね。ただ、その分、自分の能力が足りなくても、優勝する可能性を探ることができる。そう考えると個人競技はハイリスク、ハイリターンなんだろうけど、でも優勝したら全部、自分の手柄ですからね。そりゃあ、嬉しかったでしょう!
岩城:ただ…相手が先輩だけにそこまでおおっぴらに喜べない部分もあって。
橋本:試合中は『鈍感力』を働かせていたのに、そこは気にしていたんですね(笑)。ちなみに、性格的には個人競技向きだと思いますか?
岩城:そうですね。実際、間違いなく、サッカーなどの団体競技には向いていないと思う。だって、私、協調性がないですから。周りのことが全然見れないタイプというか…バドミントンのコートくらいしか見えないっていうくらい視野も狭いですしね。確かに、バドミントンにも団体戦はあるけど、基本は自分ペースですからね。実際、他の選手が試合をしている間に、自分はウォーミングアップを始めて…っていう感じで、殆ど他の選手の試合は見ていないし、団体戦といえども、要は自分は勝てばいい訳だから結局は、個人戦と同じなんですよね。だから…やっぱり私は個人競技向き。主人にサッカー界の話を聞いても、つくづく自分はサッカー界では生きられないと思います。
橋本:団体競技の中で生きて来た人と、個人競技の中で生きて来た人が夫婦になってもうまくいくんですね?
岩城:いや、うちは主人だからうまくいくんだと思います。私って本当に協調性がないらしくて。しかもそれが当たり前だと思って生きて来たけど、主人に言わせれば『全然、普通じゃない』らしい。実際、家族の中で暮らしていても、結構、ワンマンですから。
橋本:まさか、みんなで遊びに行っても、一人で行動するとか?!
岩城:それはありますね。みんなで出掛けているのに、一人でブラッと行動してしまったり、一人だけ先にご飯を食べていたり、自分がしたいと思ったら、すぐにしてしまう。それに…例えばいろんなケーキがあって、ジャンケンで選ぶ順番を決めようとなった時も、主人は参加しないけど、私は「お母さんも、これが絶対に欲しい!」と言って本気で参加しますから(笑)。そのせいか、3人の子供たちは、お父さんのことは絶対的存在として見ているけど、私のことは…自分たちよりちょっと上くらいにしか見てないと思います。
橋本:あれ?!岩城家はハルミさん入れて、実は子供が4人(笑)?!
岩城:そうかも。子供たちが主人にダメだって言われたことも、私がしたいとなれば子供と一緒になってやっちゃったりもしますしね。
橋本:夫婦の話をもうちょっと聞きたいところですが、それは後から聞くとして話を戻します。高校2年生の時に念願の日本一になって以降の成績はどうだったんですか?

岩城:短大を卒業するまでずっと日本一でした。やっぱりそれは、高校2年生で日本一になれた経験が大きかったと思う。その時以来、自分の中で「絶対に負けられない。どんな強い相手でもここで負ける訳にはいかない」って思いがすごく強くなりましたからね。そう言えば、この間ちょうど昔の雑誌を見返す機会があって。当時の記録を見ていたら高校3年生時の決勝も、11-0と11-3だったし…殆どの試合を、相手には最小限の点数しか与えずに勝っているから、自分で言うのもなんですけど、当時は圧倒的に強かったんだと思います。
橋本:高校の先生が一番怖かったっておっしゃっていましたけど、それだけ強くてもハルミさんも殴られました?
岩城:殴られましたね。特に私はシングルは得意だったですけど、ダブルスが苦手で。ダブルスでは二人の間に球を落とす“お見合い”が一番、許されないミスなんですよね。なのに、しょっちゅう落とすもんだから、それを理由に殴られることは結構ありました。いつだったか試合の1週間前の練習で、身体が吹っ飛ぶくらい殴られて。顔に痣を作って試合に臨んだこともありました。
橋本:ダブルスが苦手ってことは…やっぱり協調性がないんですね?
岩城:間違いないと思います。
橋本:ちなみに、日本一を実現してからも目標は常に日本一だったんですか? 世界一、という風には切り替わらなかった?
岩城:バドミントン界では当時、中国がダントツに強くて。もちろん、気持ちとしては何とか勝ちたいとは思っていましたけど、あまりにもレベルの差がありましたからね。だからこそ、世界一になりたいというよりは、打倒・中国というか。中国人選手を相手にしても、通用する選手になりたいという思いが強かったように思います。

取材協力/dieci
text by misa takamura

岩城ハルミ/プロフィール
1965年6月24日生まれ。大阪府大東市出身。中学1年生時に本格的にバドミントンをはじめる。中学~短大までを過ごした名門・四条畷学園では、高校2年生時に日本一の座を手に入れたのを皮切りに、卒業までその座を守り抜く。卒業後、所属した三洋電機ではケガに苦しむことが多かったが、2年半のリハビリ生活を経た88年。復帰戦となった全日本社会人大会で優勝し、劇的な復活を遂げる。以降もコンスタントに結果を残しながら、92年のバルセロナ五輪への切符を手に。同大会への出場後引退した。現在は『ヨネックスアドバイザリー』スタッフ、『オリンピアンズ協会』『大阪市ゆとりとみどり「夢・授業」講師や『パナソニックジュニアバドミントンクラブ』のコーチングスタッフとして小中学生の指導にあたる。<岩城浩平オフィシャルブログ/http://pure-city.jp/kohei/index.html