橋本英郎公式サイト「絆」
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vol.31 岩城ハルミ(元バドミントン選手)

橋本:高校卒業後、短大でも日本一の座を譲ることなく、三洋電機バドミントン部に入部されました。大ケガをされたのはその頃でしたよね。
岩城:そうです。しかも三洋電機に入ってすぐでした。最初は右のスネあたりの疲労骨折だったんですけど、基本的に痛みに強かったし、最初は「なんとなく痛いな~」って感覚で一気に痛くなる訳じゃなかったから耐えていたんですけどね。
橋本:分かります。僕もスネの疲労骨折は経験がありますけど、確かに最初は耐えられる状態でしたからね。ただ、だんだん痛くて走れないという状況になって。普通の生活に戻ったら楽だった分、最初は騙し騙しやっていたけど、そうもいかなくなってきたから、結局休みました。

岩城:本当はそれが理想というか… 早い段階で休めればいいんですけどね。実際、私もそうしていたら、あそこまでひどくなるケガではない…って後から主人に聞いたんですけど。でも当時は、そういうトレーナーさんも身近にいなかったこともあって歯止めがきかなかったし、そもそも、当時は全日本メンバーにも選ばれていたこともあって、とにかく我慢しながらやっていたんです。当時、痛みがとれる湿布みたいなのが流行っていたんですけど、私もそれを貼って(笑)。そしたら、だんだん悪化して、疲労骨折しているヒビのところが墨のように真っ黒になっちゃって。観念して病院に行ったら、先生に骨が壊死してしまっているような状況だと言われてしまった。で、このままでは絶対にダメだからと、そこの骨をとって、自分の別のところから骨を移植させる手術に踏み切ったんです。ただ…手術したのが6月だったんですが、その3ヶ月後の9月にアジア大会が控えていましたからね。そこにどうしても出たいという思いから急ぎ足で復帰しようとリハビリをしていたら、逆に悪化してしまって。それでも1年くらいは試合に出続けたんですけど、痛みを感じながらプレーしているので全然、結果が出ない。そもそもバドミントンは瞬間的なスポーツというか。特に私はシングルプレーヤーだったので自分が動かなければ結果が出ないのに、スネに痛みがあるから飛べないし、思うようなプレーもできない。最悪でした。
橋本:そういう状態でも、休むという判断ができなくて、突っ走ってしまった、と。
岩城:そうですね。今の時代ならトレーナーにしっかり判断してもらって…ってなるんでしょうけど、当時はそういう環境も整っていなかった分、自分の判断が全てでしたからね。自分でセーブして「ここまでやったらやめよう」ということも出来ず、どこまでもやっちゃう感じで、そうなるとどんどん自分を痛めつけてケガを悪化させてしまうという状況だった。しかも、全日本からも外れてしまって、完全な悪循環ですよね。という状況もあって、手術から1年後くらいにもう一度病院に行ったら、今度は移植した部分の周りの肉もなくなってしまい、かなりの範囲が腐ったような状況になっていて「ここまでひどくなってしまったら、もう代表レベルへの復活は難しい」と言われてしまった。実際、利き足だっただけに、この足がダメとなるとジャンプが出来ないし、踏ん張りもきかないですからね。ただ、それでも自分としては、やれている頃の自分の姿が頭に残っていて諦めがつかない。それもあって三洋電機から離れて自分で治していこうと決めたんです。
橋本:三洋電機から離れるとは?
岩城:一応、所属していることにはなっていたけど、チームとしての活動の一切を休ませてもらいました。というのも、チームに所属しているとどうしても、自分のペースでは治せないから。だからそこから抜けて、自分で出来る限りのことをやってみた。阪大でリハビリをしたり、東京の慈恵医大で診てもらったり。
橋本:手術ももう一度したんですか?
岩城:いえ、手術はしていません。いろんな病院で診てもらった結果、そのままの状態で、今ある細胞を活かしながら治していこうという方針になったので。ただ、それでも完全には戻らないと言われていたんですけどね。当時、先生にとってもこういう症状は例がなかったこともあって、予測しきれないところもあったと思うんですけど。
橋本:治療に専念した甲斐があって、結果的に復帰された訳ですが、復活まではどのくらい時間を要したんですか?
岩城:騙し騙しやっていた最初の1年も含めて、2年半ですね。年齢でいうと、21才からの2年半ですから、バドミントン選手としては一番ピークの時だった。実際、社会人になってすぐの大会でも、北田さんっていう強い先輩とダブルスを組んで世界大会で3位になったりもして右肩上がりの状況の時にケガが発覚したので、ケガがなければ…と何度思ったか分かりません。
橋本:全日本レベルの選手でも、当時はまだケガの治療に対する環境は整っていなかったのですか?
岩城:そうですね。当時、各社会人のクラブを見渡しても、トレーナーがいるチームは静岡のヤマハくらいでしたから。だから基本的には個人で対処するというか。自分が痛いと思ったり、悩みがあれば接骨院にいく、みたいな感じでした。
橋本:しかも、女性って男性以上に追い込むらしいですね。だからトレーナーやドクターが止めないと、自分で止められないって話を聞いたことがあります。

岩城:確かにそれはあるかも。まぁ、止められたところできっと止まらないから、これまた厄介なんですけど(笑)。基本的に女性は痛みに強いからかも知れませんね。でも結局、私が失敗しているのは全部そこですから。我慢すればひどくなるのは分かっているのに、繰り返してしまった。ただ、その2年半の間に、自分自身はかなりいろんなことを感じられたし、いろんな人に出会えて、アドバイスもいただいたのはすごく大きかったというか。復帰後、ケガをしても…といってもそこまでのケガではなかったけど、でも、ケガに対する自分の気持ちのゆとりも全然違ったし、いま、自分が指導者として子供たちに教える上でも、そうした自分の悔しい経験はすごく役立っていますからね。もし私がケガも何もなく順風満帆に結果を残して来た選手なら言えなかっただろうな、と思うことも自分の言葉で伝えることができる。それはあの2年半の経験があったから…って今なら思えるけど、当時はそこまで余裕はなかったかな。
橋本:察するに、その2年半はおそらくいろんな葛藤との戦いだったと思いますが、それでもバドミントンをやめなかった理由は?
岩城:やっぱり全日本への拘りかなぁ。単にバドミントンをしているだけならそこまで必死に復帰しようと思わなかったかもしれないけど、とにかく全日本に戻りたいという気持ちがあったから、頑張れた。バドミントン界の全日本は、またサッカー界の日本代表とは少し違うのかもしれないけど、でも、背中に『JAPAN』という文字を背負っている感覚が…企業名ではなく『JAPAN』を背負っている感覚が私には何にも変えられない喜びだったんですよね。だからこそそこにもう一度戻りたかった。
橋本:国を背負った戦いですからね。分かる気がします。
岩城:でも、サッカー界をみてもそうですが、今の若い選手って凄いですよね。代表とか国を背負うっていうことを…もちろん、気持ちとしては背負っているんだろうけど、そんなにも表に出さない。あれってすごいなぁって思います。私もそんな風な感覚で『JAPAN』を背負えていたらもう少し世界の舞台でも結果を出せたのかなって思いますしね。でも世界に出れば、やっぱり日本では見えないこともたくさん見えてくるし、本当に世界の大会は楽しかった。
橋本:世界大会と言えば、ハルミさんが出場された92年のバルセロナ五輪ですが、その話を聞く前に、ケガから復帰後、どんな風に全日本に戻ることができたのかを聞かせてもらえますか?
岩城:社会人になって最初の1年は、試合には出ていたけど自分が全くできない状態で、試合をしてもすぐに負けていたから優勝なんてとんでもなくて。周りからも「あんな試合をしているようじゃあ、鴻原はもう終わりや」って言われ続けて過ごし、そのあと1年半は全く試合をせずに、ある意味、ケガを治すことに専念して過ごして。その間は「もう一度全日本に復帰したい」という一心でしたけど、正直、1年半も実戦から離れていたら半信半疑のところもあるじゃないですか? そしたら、復帰戦となった全日本社会人大会で、優勝したんです。復帰する半年くらい前から足の状態は目に見えてよくなってきたというのはあったんですけど、でもまさか優勝できるとは思ってもいなかったので自分でもびっくりしました。
橋本:足の調子が良くなり始めた半年間に、一気に調子を取り戻したということですか?
岩城:正確に言うと、休むと決めた1年半のうち、最初の半年が過ぎた段階で少しずつ骨の周りに肉がつきはじめて。「もしかしたから回復するかも」っていう兆しが見えたんですよね。そのあたりから、徐々にイメージトレーニングとか軽いトレーニングを始め、1年くらい経った時にようやく走り始めた。つまり、半年くらいかけて基礎的なトレーニングを始めて、バドミントン自体は1年くらい経ってから本格的に打ち始めたんです。でも厳密には復帰戦はそこから3ヶ月後くらいでしたからね。最初は出場するかどうかを迷っていたくらいなんですけど、結果的に「出てみよう!」と思って出場したら優勝した、と。そのことは自分が復帰する上でのかなりの自信にもなりました。しかもその4ヶ月後の1月にジャパンオープンという世界選手権があったんですが、準々決勝で当時の世界チャンピオンだった中国人選手と対戦したんですよね。そしたら、もう少しで勝てるっていうくらいの試合ができて。そのことによって更に自信を強めることができました。
橋本:え?!世界チャンピオンと対等に渡り合ったっていうことですか?
岩城:一応…でもその人には短大時代の自分が一番ピークだった時に、勝ったことがあったんですよね。その時は、その人がそんなに凄い人とは知らず、何も考えずに試合をしたら勝ってしまって。周りからはかなりびっくりされて不思議に思っていたら、後からその子が相当強い子で、殆どの選手が全くといっていいほど歯がたたなかったと聞いた(笑)。という経験があった分、相手もやりにくかったのかもしれないですけどね。結果的に1セット目を獲り、2セット目を負けて、3セット目は8-8までいったけど、最後ポンポンと3点を獲られて負けてしまったんですが、自分としては「そこまで追いつめることができた」という手応えがあったし、その後、全日本にも復帰しましたからね。それがちょうど1988年でした。
橋本:その結果も、92年のバルセロナ五輪出場のための選考ポイントになったんですか?
岩城:いや、その時はまだですね。五輪代表は90年の試合からランキングがポイントでカウントされることになっていて…だから私もそのタイミングで東京に行きました。というのも、三洋電機はもともと実業団をメインに考えているチームだったため『五輪』というビジョンは持っていなくて。つまり実業団の団体戦に重きを置いていた分、海外の大会には出場していなかった。それはイコール、ランキング争いが出来ないということですから。それもあっていろいろ悩んだ末に東京に行こう、と。もちろん、大きなケガをして復帰させてもらった恩はすごく感じていたけれど、五輪に出たいという目標がありましたからね。それで、東京の尚美学園という学校で指導者をしながら五輪出場を目指すことにした、と。その尚美学園は、当時、社会人の選手を受け入れるのは初めてで、所属選手も私だけだったんですが、大学にバドミントン部を作りたいというビジョンを持っておられたので、そのサポートをする役割も含めて面倒をみていただいたんです。
橋本:所属が一人なら練習はどうするんですか?
岩城:当時NTT東京っていうのが一番強かったんですが、当時、陣内貴美子さんなど東京を拠点にプレーしている選手はみんなそこに集まって一緒に練習をしていたんですよね。つまり、所属のヨネックスでの練習もやりながら、プラスアルファの練習としてそこで練習をする、という感じで、全日本の監督やコーチもみんなそこに来てくれていました。なので、私も尚美学園に所属をしながらも、練習はそこで…つまりはレベルが高い人たちが集まっている中でやることが出来たんですが、言うまでもなく練習内容はすごく濃かったし、そこでの時間が自分を鍛える上ではかなりのプラスになりました。

橋本:そう考えると東京へ行く決断は、後の人生にも相当、影響したということですね。実際、90、91年の大会で結果をしっかり残せたことが、五輪への切符にも繋がったんでしょうしね。
岩城:そうですね。ただ、本当にスケジュール的にもハードだったし、ランキングも1試合ごとに変わるような状況で、いろんな意味でプレッシャーもありましたけどね。ただ自分としては、最後の勝負だと思って東京に乗り込んでいましたから。心が折れるようなことはなかったです。
橋本:ポイントの対象になる大会は決まっていたんですか?
岩城:海外の試合は全て試合ごとにポイント数が決まっていました。分かりやすく大きな大会はポイントが大きく、小さい大会はポイントが小さいって感じです。
橋本:そうなると、海外試合といえども、結局は日本人同士の対決になるのでは?
岩城:基本的に、全日本の選手はポイントの大きな同じ大会に出ることが多いですが、強い海外選手もポイントの高い試合に出てくるので、日本人選手同士が対決することは殆どありません。ただ、ポイントの小さい試合では強い選手が出て来ないこともあり、日本人選手同士が対決することはあります。
橋本:確かバドミントンはバルセロナ五輪から正式競技になったんですよね?『初めて』という部分で難しさを感じたところはありましたか?
岩城:確かに初めてがゆえに、選考の時点でポイント換算のミスがあったり、いろんな問題が起きて…正直、大変なことも多くて気持ち的に苦しんだ面はたくさんありました。
橋本:バルセロナ五輪には何人、出場できたんですか?
岩城:シングルが2人で、ダブルスは2組。これはシングルスとかぶらないので、全部で6人です。これは男子も同じでした。
橋本:バルセロナ五輪で初めての正式種目になったってことは、五輪に対する知識がないまま挑むってことですよね? それって大変だったのではないですか?
岩城:確かに出てみなければ分からないことはたくさんありましたからね。ただ、実際に行ってみて普通の世界大会とは全然違うんだなという空気はすぐに感じました。世界的にも強いと言われている選手が尋常じゃないプレッシャーを感じていたし、選手によっては震えたりしている人もいて…やっぱり1本1本のプレーに対する重みが違うんだな、と。その時に初めてやっぱり五輪は特別な、凄い大会なんだなと感じたところはあったと思います。

取材協力/dieci
text by misa takamura

岩城ハルミ/プロフィール
1965年6月24日生まれ。大阪府大東市出身。中学1年生時に本格的にバドミントンをはじめる。中学~短大までを過ごした名門・四条畷学園では、高校2年生時に日本一の座を手に入れたのを皮切りに、卒業までその座を守り抜く。卒業後、所属した三洋電機ではケガに苦しむことが多かったが、2年半のリハビリ生活を経た88年。復帰戦となった全日本社会人大会で優勝し、劇的な復活を遂げる。以降もコンスタントに結果を残しながら、92年のバルセロナ五輪への切符を手に。同大会への出場後引退した。現在は『ヨネックスアドバイザリー』スタッフ、『オリンピアンズ協会』『大阪市ゆとりとみどり「夢・授業」講師や『パナソニックジュニアバドミントンクラブ』のコーチングスタッフとして小中学生の指導にあたる。<岩城浩平オフィシャルブログ/http://pure-city.jp/kohei/index.html