橋本英郎公式サイト「絆」
FRIENDS

vol.29 岩城ハルミ(元バドミントン選手)

橋本英郎(以下、橋本):今日はお忙しいところありがとうございます。いつも旦那さま(注:ガンバ大阪トレーナー、岩城孝次氏)にはお世話になっている上に、こうしてお家まで押し掛けてしまってすいません。
岩城ハルミ(以下、岩城):いえいえ、息子たちもサッカーをしているので、息子ともどもこうして来ていただいてすごく喜んでいるんです。ただ、私で対談が成立するのかが不安です(笑)。私、結構、抜けているところがあって…子供たちにもよく突っ込まれるんですよ。
橋本:今はパナソニックのバドミントンチームで子供たちの指導にあたられているんですよね?
岩城:そうです。今年の4月づけで三洋電機株式会社がパナソニック株式会社の子会社になったことに伴い、『三洋電機バドミントンチーム』が『パナソニック バドミントンチーム』に名称が変更になったんですよね。それにあわせて私が指導していた『SANYO ジュニアバドミントンクラブ』の名称も『パナソニック ジュニアバドミントンクラブ』になり、今はそこで指導にあたっています。
橋本:ガンバ大阪もパナソニック株式会社がメインスポンサーだけに、家の中では過ごしやすくなったのではないですか?
岩城:私は現役時代、三洋電機の選手だったので、ユニフォームの色も赤から青に変わったり、企業スポーツとしてのいろんな取り決めの部分で、なんとなく違和感を感じるところもありますが、家の中では動きやすいというか。パナソニックのことも主人がよく理解している分、教えてもらえることも多くて助かっています。そう言えば、今回、対談させていただくにあたり、昨日初めてHPを拝見させていただいたのですが…といいつつ、読み過ぎたらプレッシャーになる気がしてあまり読んでいないんですけど(笑)。
橋本:(笑)。大丈夫ですよ。いつも行き当たりばったりの対談ですから、気楽に話してもらえれば嬉しいです。
岩城:いつもなら主人が横でいろいろとアドバイスをしてくれるんですけど、今日は私だけなので…言ってはいけないことまで話してしまいそうで、やや不安です。
橋本:じゃあ、岩城トレーナーが帰宅されないうちに、たっぷりいろいろとぶちまけてもらいましょうか(笑)。そういえば、岩城トレーナーとご結婚されてから名前をカタカナに変えられたんですね~。バドミントン選手として活躍されていた頃は、鴻原春美さんでしたよね?
岩城:そうなんです。結婚する際に姓名判断をしてもらって、名前をカタカナにしました。
橋本:姓名判断とか占いを信じる派ですか?
岩城:何でもかんでもは信じないけど…でも信じる方かな。名前を変えるといっても戸籍までは変えられないので、要は2つ名前を持っているような感じなんですけどね。人によっては全く違う名前にする人もいるらしいけど、私はそこまでは変えたくなかったので、いろいろと見てもらった結果、カタカナにしたんです。
橋本:サインがしやすいからいいですね(笑)。
岩城:(笑)。今では「自分の名前!」っていう感じがしてすごくしっくりきているし、幸せにも暮らせているので良かったです(笑)。橋本さんは、姓名判断や占いには興味はありますか?
橋本:ありますよ。姓名判断はしてもらったことがないけど、守護霊の話とかを聞くのは結構好きです。
岩城:スポーツ選手は結構多いですよね。私も、見てもらいすぎるのも、気にし過ぎてダメな気がするので、本当に大事な時だけ見てもらうようにしています。現役の時にケガで悩まされていた時なんかは、なんていうか…藁にもすがる思いで見てもらったこともありましたしね。
橋本:わかります。背中を押してもらいたいというか、ヒントが欲しいというか。全てを鵜呑みにする訳じゃないけど…まあ、自分の中だけでのきっかけみたいなものですね。ケガの話が出ましたが、その話を聞く前に、バドミントン選手としての輝かしいキャリアについて少し教えてもらえますか?

岩城:そんな大して輝かしくはないですよ!
橋本:いやいや、オリンピックに出場したというだけで十分輝かしいですよ!僕は縁がなかった大会なので。バドミントンを始めたのはいつですか?
岩城:本格的には中学1年からです。もともと、私は四条畷学園の附属の小学校に通っていたんですが、6年生時に特別活動でバドミントンをやる機会があって。その時に、中学のバドミントン部の先生の目に留まったらしくて。四条畷学園は中学、高校ともバドミントンの強豪校として知られる学校だっただけに、なんで私なんか…と思ったんですが、おそらく身体が大きかったからなのかなぁ(笑)。あとはその先生曰く「他の子に比べてバネがあった」と。自分ではよく分からないですけどね。
橋本:で、始めた途端にメキメキと頭角を表した、と。
岩城:中学3年生時にシングルスで全国3位になりましたね。
橋本:はやっ!やっぱり先生の見る目は間違ってなかった訳ですね…。
岩城:でも私としては優勝を狙っていましたから。結果的に優勝した選手と準決勝で対戦し、競り合った末に負けて3位になったんですけど、もう悔しくて、悔しくて。だから…当時からおそらく変わった子供だったと思うんですが…試合が終わったあと、体育館の観客席のところにあがって「今度は絶対に勝つ~~っ!高校に行ったら絶対に勝ってやる~~っ!」って泣きながら走って、叫んでいました(笑)。

橋本:え? 観客席にはまだ他の選手とか観戦者がいたんですよね!?
岩城:はい。
橋本:それは残念ながら、変わってますね(笑)。周りの目なんて全く気にしていなかったんでしょうけど。
岩城:ですね。自分が悔しい、という気持ちの方が大きくて、周りなんて全く見えていなかった。
橋本:でも本格的に始めたのが中学生からって、サッカー選手と比べてもそんなに早い方じゃないと思うんですが、バドミントン界はそんな感じなんですか?
岩城:いや、強い県は違いますね。例えば、陣内貴美子さんが育った熊本県も強豪として知られていますが、熊本県あたりは、小学3~4年生から本格的に鍛えられる厳しい環境がありますからね。その違いによる差は少なからずあると思う…っていうことを自分が大人になってから痛感しましたね。例えばサッカーでもボールタッチの柔らかさなんて、大人になってから身に付けようと思っても難しかったりしますよね?それと同じで、バドミントンも基礎技術を小学生の時にしっかりやっている子とやっていない子ではどうしても大人になった時に差が生まれてしまう。実際、私も、社会人でプレーしていく中ではもっとラケットワークがあったらな、って何度も思いましたからね。だからこそ、今、ジュニアの子供たちを指導するにあたっては、そのへんをきっちり教えたいというか。基礎技術をしっかり身につけた上で、大人になるにつれて身体ができてきて、パワーが出て来たら間違いなく伸びると思いますから。
橋本:ハルミさんの中学時代は、どのくらい練習をしていたんですか?
岩城:半端ないくらい練習は厳しかったし、練習量も多かったですよ。例えば、学校の側に飯盛山っていう山があったんですけど、最初のウォーミングアップでその山の中腹まで走らされるんですよね。往復で30~40分くらいだったかなぁ。しかも行きはかなり急な上り坂ですからね。殆どの選手が走り切れずに終わる、っていうくらいの状態でなんとか帰って来て、そこからまずは1000本ノックのようなことが始まって。時々500~600本で終わることもあるんですけど、いずれにしても最後は肩もあがらない、足もあがらない、っていうような状態になる。でもそれもあくまでアップ段階で、そこから更に大変な練習が待っていますから。そういうのを毎日、授業が終わって16~20時くらいまでやっていました。
橋本:休みはあったんですか?
岩城:テスト中と12月31日、1月1日、2日だけが休みでした。
橋本:今、ハルミさんが教えている子供たちも、そのくらい練習をするんですか?
岩城:本当に強くするためには、そのくらいやらないといけないんですけどね。ただ…なんて言ったらいいのかなぁ、今の選手は追い込まれている感じが全くない(笑)。私たちの時代は先生が厳しかったのもあったけど、1球のミスにかなりビビっている自分がいて。4時間の練習でも気を抜けるような時間は一切なかったし、気を抜こうものなら容赦なく竹刀で叩かれたり、殴られたりしましたからね。そういえば、当時、うちの父親がお風呂に入ろうとした私を見て、青痣だらけでびっくりしたらしくて。私が一切、そんな話を家でしないもんだから、余計に驚いたみたいです。もちろん、それも愛のある暴力だったと分かっていたので親も黙認していましたけど、今の子供たちは…暴力があるからないからの問題ではなく、いずれにせよ、追い込まれた中でバドミントンをやっている感じがないんですよね。時代かなぁ。
橋本:中学からバドミントンを始めても、そういう厳しい練習に最初からついていけたのですか?
岩城:ついていっていましたね。
橋本:そんなに厳しくても、楽しめていました?
岩城:いや、楽しくないです(笑)。だから一度だけ辞めようとしたこともありました。っていうのも、四条畷学園は中学、高校、短大のバドミントン部がみんな同じ体育館で練習をしていたんですけど、当時、高校の先生が一番厳しかったんですよね。で、ある日、横で練習をしていた高校の先輩がその先生に恐ろしいくらい殴られていて。鼻血が出ているのもおかまいなしに、まだ上から馬乗り状態で殴られていた。それを見て「あれは私には無理や。もう辞めよう」と思って、1週間くらい練習を休んだんですよ。そしたら、最初は冗談だと思っていた先生もこれはヤバいと思ったらしく、家に電話がかかってきて、うちの母親に「娘さんを練習に連れて来てください」と。それに、私を引き戻すためにいろんなことを言って母親を説得したらしく、今度はその母親に私が説得された。「苦しい時もあるかもしれないけど、頑張ったら絶対に日本一になれるからって先生も言ってくれているよ。だから頑張ったら?」って。それを聞いて、そうか日本一になれるんなら戻っても良いかな、と。単純ですけど、そういう言葉には間違いなく弱いですからね。結果的に、「あんなに殴られたら耐えられる自信がない」と思いつつ戻ったんですが、楽しかったと言われたら…う~ん、やっぱり楽しくはないかな。でも勝つ喜びは間違いなく感じていましたね。

橋本:スポーツにおいて『楽しむ』って表現はすごく難しいと思うんですよね。受け取り方によっては、真剣味が足りないってことにもなってしまいますから。例えば、サッカー界で日韓戦と言えば、お互いにライバル心をむき出しにした戦いになるじゃないですか? そういう試合で例えば、選手が「日韓戦を楽しんで戦います」って言うと、「日本を代表して戦うのに、楽しんでいる場合じゃないやろ」と受け取る人もいる。でも、決してその『楽しむ』は楽をするとか、本気じゃないということではなくて。強い相手とのせめぎ合いや緊張感、スリルというのかなぁ。1つのミスが命取りになるというような緊迫した状況の中での緊張感、ゾクゾク感を『楽しむ』っていう意味なんですよね。しかもそれがあるから普段の練習も頑張れるというか。少々辛いことがあっても、そういう『楽しさ』を知っているし、その楽しさは、高いレベルになるほど増していくから頑張れる。ハルミさんもきっとそういう感覚だったんでしょうね。
岩城:その通りですね。練習が楽しかったかと言えば、決して楽しくはなかったけど、でも、試合には自分が求めているものがあるから、そこから逆算して、楽しくない練習も頑張らないとアカンよな、っていう感覚は間違いなくありました。

取材協力/dieci
text by misa takamura

岩城ハルミ/プロフィール
1965年6月24日生まれ。大阪府大東市出身。中学1年生時に本格的にバドミントンをはじめる。中学~短大までを過ごした名門・四条畷学園では、高校2年生時に日本一の座を手に入れたのを皮切りに、卒業までその座を守り抜く。卒業後、所属した三洋電機ではケガに苦しむことが多かったが、2年半のリハビリ生活を経た88年。復帰戦となった全日本社会人大会で優勝し、劇的な復活を遂げる。以降もコンスタントに結果を残しながら、92年のバルセロナ五輪への切符を手に。同大会への出場後引退した。現在は『ヨネックスアドバイザリー』スタッフ、『オリンピアンズ協会』『大阪市ゆとりとみどり「夢・授業」講師や『パナソニックジュニアバドミントンクラブ』のコーチングスタッフとして小中学生の指導にあたる。<岩城浩平オフィシャルブログ/http://pure-city.jp/kohei/index.html