橋本英郎公式サイト「絆」
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vol.31 岩城ハルミ(元バドミントン選手)

橋本:高校卒業後、短大でも日本一の座を譲ることなく、三洋電機バドミントン部に入部されました。大ケガをされたのはその頃でしたよね。
岩城:そうです。しかも三洋電機に入ってすぐでした。最初は右のスネあたりの疲労骨折だったんですけど、基本的に痛みに強かったし、最初は「なんとなく痛いな~」って感覚で一気に痛くなる訳じゃなかったから耐えていたんですけどね。
橋本:分かります。僕もスネの疲労骨折は経験がありますけど、確かに最初は耐えられる状態でしたからね。ただ、だんだん痛くて走れないという状況になって。普通の生活に戻ったら楽だった分、最初は騙し騙しやっていたけど、そうもいかなくなってきたから、結局休みました。

岩城:本当はそれが理想というか… 早い段階で休めればいいんですけどね。実際、私もそうしていたら、あそこまでひどくなるケガではない…って後から主人に聞いたんですけど。でも当時は、そういうトレーナーさんも身近にいなかったこともあって歯止めがきかなかったし、そもそも、当時は全日本メンバーにも選ばれていたこともあって、とにかく我慢しながらやっていたんです。当時、痛みがとれる湿布みたいなのが流行っていたんですけど、私もそれを貼って(笑)。そしたら、だんだん悪化して、疲労骨折しているヒビのところが墨のように真っ黒になっちゃって。観念して病院に行ったら、先生に骨が壊死してしまっているような状況だと言われてしまった。で、このままでは絶対にダメだからと、そこの骨をとって、自分の別のところから骨を移植させる手術に踏み切ったんです。ただ…手術したのが6月だったんですが、その3ヶ月後の9月にアジア大会が控えていましたからね。そこにどうしても出たいという思いから急ぎ足で復帰しようとリハビリをしていたら、逆に悪化してしまって。それでも1年くらいは試合に出続けたんですけど、痛みを感じながらプレーしているので全然、結果が出ない。そもそもバドミントンは瞬間的なスポーツというか。特に私はシングルプレーヤーだったので自分が動かなければ結果が出ないのに、スネに痛みがあるから飛べないし、思うようなプレーもできない。最悪でした。
橋本:そういう状態でも、休むという判断ができなくて、突っ走ってしまった、と。
岩城:そうですね。今の時代ならトレーナーにしっかり判断してもらって…ってなるんでしょうけど、当時はそういう環境も整っていなかった分、自分の判断が全てでしたからね。自分でセーブして「ここまでやったらやめよう」ということも出来ず、どこまでもやっちゃう感じで、そうなるとどんどん自分を痛めつけてケガを悪化させてしまうという状況だった。しかも、全日本からも外れてしまって、完全な悪循環ですよね。という状況もあって、手術から1年後くらいにもう一度病院に行ったら、今度は移植した部分の周りの肉もなくなってしまい、かなりの範囲が腐ったような状況になっていて「ここまでひどくなってしまったら、もう代表レベルへの復活は難しい」と言われてしまった。実際、利き足だっただけに、この足がダメとなるとジャンプが出来ないし、踏ん張りもきかないですからね。ただ、それでも自分としては、やれている頃の自分の姿が頭に残っていて諦めがつかない。それもあって三洋電機から離れて自分で治していこうと決めたんです。
橋本:三洋電機から離れるとは?
岩城:一応、所属していることにはなっていたけど、チームとしての活動の一切を休ませてもらいました。というのも、チームに所属しているとどうしても、自分のペースでは治せないから。だからそこから抜けて、自分で出来る限りのことをやってみた。阪大でリハビリをしたり、東京の慈恵医大で診てもらったり。
橋本:手術ももう一度したんですか?
岩城:いえ、手術はしていません。いろんな病院で診てもらった結果、そのままの状態で、今ある細胞を活かしながら治していこうという方針になったので。ただ、それでも完全には戻らないと言われていたんですけどね。当時、先生にとってもこういう症状は例がなかったこともあって、予測しきれないところもあったと思うんですけど。
橋本:治療に専念した甲斐があって、結果的に復帰された訳ですが、復活まではどのくらい時間を要したんですか?
岩城:騙し騙しやっていた最初の1年も含めて、2年半ですね。年齢でいうと、21才からの2年半ですから、バドミントン選手としては一番ピークの時だった。実際、社会人になってすぐの大会でも、北田さんっていう強い先輩とダブルスを組んで世界大会で3位になったりもして右肩上がりの状況の時にケガが発覚したので、ケガがなければ…と何度思ったか分かりません。
橋本:全日本レベルの選手でも、当時はまだケガの治療に対する環境は整っていなかったのですか?
岩城:そうですね。当時、各社会人のクラブを見渡しても、トレーナーがいるチームは静岡のヤマハくらいでしたから。だから基本的には個人で対処するというか。自分が痛いと思ったり、悩みがあれば接骨院にいく、みたいな感じでした。
橋本:しかも、女性って男性以上に追い込むらしいですね。だからトレーナーやドクターが止めないと、自分で止められないって話を聞いたことがあります。

岩城:確かにそれはあるかも。まぁ、止められたところできっと止まらないから、これまた厄介なんですけど(笑)。基本的に女性は痛みに強いからかも知れませんね。でも結局、私が失敗しているのは全部そこですから。我慢すればひどくなるのは分かっているのに、繰り返してしまった。ただ、その2年半の間に、自分自身はかなりいろんなことを感じられたし、いろんな人に出会えて、アドバイスもいただいたのはすごく大きかったというか。復帰後、ケガをしても…といってもそこまでのケガではなかったけど、でも、ケガに対する自分の気持ちのゆとりも全然違ったし、いま、自分が指導者として子供たちに教える上でも、そうした自分の悔しい経験はすごく役立っていますからね。もし私がケガも何もなく順風満帆に結果を残して来た選手なら言えなかっただろうな、と思うことも自分の言葉で伝えることができる。それはあの2年半の経験があったから…って今なら思えるけど、当時はそこまで余裕はなかったかな。
橋本:察するに、その2年半はおそらくいろんな葛藤との戦いだったと思いますが、それでもバドミントンをやめなかった理由は?
岩城:やっぱり全日本への拘りかなぁ。単にバドミントンをしているだけならそこまで必死に復帰しようと思わなかったかもしれないけど、とにかく全日本に戻りたいという気持ちがあったから、頑張れた。バドミントン界の全日本は、またサッカー界の日本代表とは少し違うのかもしれないけど、でも、背中に『JAPAN』という文字を背負っている感覚が…企業名ではなく『JAPAN』を背負っている感覚が私には何にも変えられない喜びだったんですよね。だからこそそこにもう一度戻りたかった。
橋本:国を背負った戦いですからね。分かる気がします。
岩城:でも、サッカー界をみてもそうですが、今の若い選手って凄いですよね。代表とか国を背負うっていうことを…もちろん、気持ちとしては背負っているんだろうけど、そんなにも表に出さない。あれってすごいなぁって思います。私もそんな風な感覚で『JAPAN』を背負えていたらもう少し世界の舞台でも結果を出せたのかなって思いますしね。でも世界に出れば、やっぱり日本では見えないこともたくさん見えてくるし、本当に世界の大会は楽しかった。
橋本:世界大会と言えば、ハルミさんが出場された92年のバルセロナ五輪ですが、その話を聞く前に、ケガから復帰後、どんな風に全日本に戻ることができたのかを聞かせてもらえますか?
岩城:社会人になって最初の1年は、試合には出ていたけど自分が全くできない状態で、試合をしてもすぐに負けていたから優勝なんてとんでもなくて。周りからも「あんな試合をしているようじゃあ、鴻原はもう終わりや」って言われ続けて過ごし、そのあと1年半は全く試合をせずに、ある意味、ケガを治すことに専念して過ごして。その間は「もう一度全日本に復帰したい」という一心でしたけど、正直、1年半も実戦から離れていたら半信半疑のところもあるじゃないですか? そしたら、復帰戦となった全日本社会人大会で、優勝したんです。復帰する半年くらい前から足の状態は目に見えてよくなってきたというのはあったんですけど、でもまさか優勝できるとは思ってもいなかったので自分でもびっくりしました。
橋本:足の調子が良くなり始めた半年間に、一気に調子を取り戻したということですか?
岩城:正確に言うと、休むと決めた1年半のうち、最初の半年が過ぎた段階で少しずつ骨の周りに肉がつきはじめて。「もしかしたから回復するかも」っていう兆しが見えたんですよね。そのあたりから、徐々にイメージトレーニングとか軽いトレーニングを始め、1年くらい経った時にようやく走り始めた。つまり、半年くらいかけて基礎的なトレーニングを始めて、バドミントン自体は1年くらい経ってから本格的に打ち始めたんです。でも厳密には復帰戦はそこから3ヶ月後くらいでしたからね。最初は出場するかどうかを迷っていたくらいなんですけど、結果的に「出てみよう!」と思って出場したら優勝した、と。そのことは自分が復帰する上でのかなりの自信にもなりました。しかもその4ヶ月後の1月にジャパンオープンという世界選手権があったんですが、準々決勝で当時の世界チャンピオンだった中国人選手と対戦したんですよね。そしたら、もう少しで勝てるっていうくらいの試合ができて。そのことによって更に自信を強めることができました。
橋本:え?!世界チャンピオンと対等に渡り合ったっていうことですか?
岩城:一応…でもその人には短大時代の自分が一番ピークだった時に、勝ったことがあったんですよね。その時は、その人がそんなに凄い人とは知らず、何も考えずに試合をしたら勝ってしまって。周りからはかなりびっくりされて不思議に思っていたら、後からその子が相当強い子で、殆どの選手が全くといっていいほど歯がたたなかったと聞いた(笑)。という経験があった分、相手もやりにくかったのかもしれないですけどね。結果的に1セット目を獲り、2セット目を負けて、3セット目は8-8までいったけど、最後ポンポンと3点を獲られて負けてしまったんですが、自分としては「そこまで追いつめることができた」という手応えがあったし、その後、全日本にも復帰しましたからね。それがちょうど1988年でした。
橋本:その結果も、92年のバルセロナ五輪出場のための選考ポイントになったんですか?
岩城:いや、その時はまだですね。五輪代表は90年の試合からランキングがポイントでカウントされることになっていて…だから私もそのタイミングで東京に行きました。というのも、三洋電機はもともと実業団をメインに考えているチームだったため『五輪』というビジョンは持っていなくて。つまり実業団の団体戦に重きを置いていた分、海外の大会には出場していなかった。それはイコール、ランキング争いが出来ないということですから。それもあっていろいろ悩んだ末に東京に行こう、と。もちろん、大きなケガをして復帰させてもらった恩はすごく感じていたけれど、五輪に出たいという目標がありましたからね。それで、東京の尚美学園という学校で指導者をしながら五輪出場を目指すことにした、と。その尚美学園は、当時、社会人の選手を受け入れるのは初めてで、所属選手も私だけだったんですが、大学にバドミントン部を作りたいというビジョンを持っておられたので、そのサポートをする役割も含めて面倒をみていただいたんです。
橋本:所属が一人なら練習はどうするんですか?
岩城:当時NTT東京っていうのが一番強かったんですが、当時、陣内貴美子さんなど東京を拠点にプレーしている選手はみんなそこに集まって一緒に練習をしていたんですよね。つまり、所属のヨネックスでの練習もやりながら、プラスアルファの練習としてそこで練習をする、という感じで、全日本の監督やコーチもみんなそこに来てくれていました。なので、私も尚美学園に所属をしながらも、練習はそこで…つまりはレベルが高い人たちが集まっている中でやることが出来たんですが、言うまでもなく練習内容はすごく濃かったし、そこでの時間が自分を鍛える上ではかなりのプラスになりました。

橋本:そう考えると東京へ行く決断は、後の人生にも相当、影響したということですね。実際、90、91年の大会で結果をしっかり残せたことが、五輪への切符にも繋がったんでしょうしね。
岩城:そうですね。ただ、本当にスケジュール的にもハードだったし、ランキングも1試合ごとに変わるような状況で、いろんな意味でプレッシャーもありましたけどね。ただ自分としては、最後の勝負だと思って東京に乗り込んでいましたから。心が折れるようなことはなかったです。
橋本:ポイントの対象になる大会は決まっていたんですか?
岩城:海外の試合は全て試合ごとにポイント数が決まっていました。分かりやすく大きな大会はポイントが大きく、小さい大会はポイントが小さいって感じです。
橋本:そうなると、海外試合といえども、結局は日本人同士の対決になるのでは?
岩城:基本的に、全日本の選手はポイントの大きな同じ大会に出ることが多いですが、強い海外選手もポイントの高い試合に出てくるので、日本人選手同士が対決することは殆どありません。ただ、ポイントの小さい試合では強い選手が出て来ないこともあり、日本人選手同士が対決することはあります。
橋本:確かバドミントンはバルセロナ五輪から正式競技になったんですよね?『初めて』という部分で難しさを感じたところはありましたか?
岩城:確かに初めてがゆえに、選考の時点でポイント換算のミスがあったり、いろんな問題が起きて…正直、大変なことも多くて気持ち的に苦しんだ面はたくさんありました。
橋本:バルセロナ五輪には何人、出場できたんですか?
岩城:シングルが2人で、ダブルスは2組。これはシングルスとかぶらないので、全部で6人です。これは男子も同じでした。
橋本:バルセロナ五輪で初めての正式種目になったってことは、五輪に対する知識がないまま挑むってことですよね? それって大変だったのではないですか?
岩城:確かに出てみなければ分からないことはたくさんありましたからね。ただ、実際に行ってみて普通の世界大会とは全然違うんだなという空気はすぐに感じました。世界的にも強いと言われている選手が尋常じゃないプレッシャーを感じていたし、選手によっては震えたりしている人もいて…やっぱり1本1本のプレーに対する重みが違うんだな、と。その時に初めてやっぱり五輪は特別な、凄い大会なんだなと感じたところはあったと思います。

取材協力/dieci
text by misa takamura

岩城ハルミ/プロフィール
1965年6月24日生まれ。大阪府大東市出身。中学1年生時に本格的にバドミントンをはじめる。中学~短大までを過ごした名門・四条畷学園では、高校2年生時に日本一の座を手に入れたのを皮切りに、卒業までその座を守り抜く。卒業後、所属した三洋電機ではケガに苦しむことが多かったが、2年半のリハビリ生活を経た88年。復帰戦となった全日本社会人大会で優勝し、劇的な復活を遂げる。以降もコンスタントに結果を残しながら、92年のバルセロナ五輪への切符を手に。同大会への出場後引退した。現在は『ヨネックスアドバイザリー』スタッフ、『オリンピアンズ協会』『大阪市ゆとりとみどり「夢・授業」講師や『パナソニックジュニアバドミントンクラブ』のコーチングスタッフとして小中学生の指導にあたる。<岩城浩平オフィシャルブログ/http://pure-city.jp/kohei/index.html

vol.30 岩城ハルミ(元バドミントン選手)

橋本:中学3年で全国3位になった時から、本当は日本一になりたかったっておっしゃっていましたが、目標は常に日本一だったのですか?
岩城:そうですね。中学の時に先生に言われた「頑張れば日本一になれる」っていう言葉を信じて、ずっと日本一になりたいって思いはありました。
橋本:その夢が叶ったのは?
岩城:四條畷学園の2年生の時です。あの時は運もあったと思います。
橋本:岩城トレーナーから小耳に挟んだのですが、なんでも決勝の相手は同じ高校の先輩で、しかも相手に1点も与えない完勝だったとか…伝説らしいですね。

岩城:はい…そうなんですよ。でも本当に2年生の時の優勝は運もあったと思います。当時、凄く強いと言われていて、私も勝ったことのなかった人が試合の途中に脱臼して救急車で運ばれたり、他にも強い選手がねん挫をした状態で試合に出ていたり。そんな中で私はトントンと勝ち上がることができた。その決勝では、同じ高校の3年生と対戦したんですが、その先輩とは普段の練習から常に競り合っていたし、どちらが勝ってもおかしくないっていうような力関係だったんですけど、私としては後輩だし、ある意味、怖いものなしだったんでしょうね。そしたら、結果的に1点も与えずに勝ってしまった。今の時代はラリーポイント制で試合が行われるので『0』というのはまずあり得ないと思うけど、当時は、サーブ権のある方にしか得点が入らなかったこともあり…といっても、決勝まで勝ち進むような選手同士の対戦で『0』はおそらくそうないでしょうけどね(笑)。実際、試合が終わった後も周りから「先輩に対していくらなんでも0はないやろ」って言われましたしね。でもその時は本当に1ラリー、1ラリーが無心だったし、「1点獲られることによって展開が変わってしまうかも」という危機感もあった分、絶対に最後まで気が抜けないと思ってプレーしていたら、完勝だった。実際、2セットとも11-0で勝ったことには、終わってみて初めて気がつきましたからね。つまり、意識して「0で倒そう」と思っていた訳では決してない、と。まぁ、もともとの性格的にあまり周りのことを気にしないタイプですから(笑)。
橋本:まさに『鈍感力』ですね。それはある意味、必要かも。特に個人競技ですしね。
岩城:確かに、後になって考えると『鈍感力』は備えていたかもしれない。
橋本:で、念願の日本一はめっちゃ嬉しかったんですか?
岩城:めちゃめちゃ嬉しかったです。だって日本一ですからね。サッカーでも日本一はやっぱり違うでしょう?

橋本:確かに嬉しいですね。ただ、個人と団体競技とでは感覚が違うかもしれない。個人競技は基本的に自分の力だけで勝てるけど、サッカーはそうではないですからね。ただ、その分、自分の能力が足りなくても、優勝する可能性を探ることができる。そう考えると個人競技はハイリスク、ハイリターンなんだろうけど、でも優勝したら全部、自分の手柄ですからね。そりゃあ、嬉しかったでしょう!
岩城:ただ…相手が先輩だけにそこまでおおっぴらに喜べない部分もあって。
橋本:試合中は『鈍感力』を働かせていたのに、そこは気にしていたんですね(笑)。ちなみに、性格的には個人競技向きだと思いますか?
岩城:そうですね。実際、間違いなく、サッカーなどの団体競技には向いていないと思う。だって、私、協調性がないですから。周りのことが全然見れないタイプというか…バドミントンのコートくらいしか見えないっていうくらい視野も狭いですしね。確かに、バドミントンにも団体戦はあるけど、基本は自分ペースですからね。実際、他の選手が試合をしている間に、自分はウォーミングアップを始めて…っていう感じで、殆ど他の選手の試合は見ていないし、団体戦といえども、要は自分は勝てばいい訳だから結局は、個人戦と同じなんですよね。だから…やっぱり私は個人競技向き。主人にサッカー界の話を聞いても、つくづく自分はサッカー界では生きられないと思います。
橋本:団体競技の中で生きて来た人と、個人競技の中で生きて来た人が夫婦になってもうまくいくんですね?
岩城:いや、うちは主人だからうまくいくんだと思います。私って本当に協調性がないらしくて。しかもそれが当たり前だと思って生きて来たけど、主人に言わせれば『全然、普通じゃない』らしい。実際、家族の中で暮らしていても、結構、ワンマンですから。
橋本:まさか、みんなで遊びに行っても、一人で行動するとか?!
岩城:それはありますね。みんなで出掛けているのに、一人でブラッと行動してしまったり、一人だけ先にご飯を食べていたり、自分がしたいと思ったら、すぐにしてしまう。それに…例えばいろんなケーキがあって、ジャンケンで選ぶ順番を決めようとなった時も、主人は参加しないけど、私は「お母さんも、これが絶対に欲しい!」と言って本気で参加しますから(笑)。そのせいか、3人の子供たちは、お父さんのことは絶対的存在として見ているけど、私のことは…自分たちよりちょっと上くらいにしか見てないと思います。
橋本:あれ?!岩城家はハルミさん入れて、実は子供が4人(笑)?!
岩城:そうかも。子供たちが主人にダメだって言われたことも、私がしたいとなれば子供と一緒になってやっちゃったりもしますしね。
橋本:夫婦の話をもうちょっと聞きたいところですが、それは後から聞くとして話を戻します。高校2年生の時に念願の日本一になって以降の成績はどうだったんですか?

岩城:短大を卒業するまでずっと日本一でした。やっぱりそれは、高校2年生で日本一になれた経験が大きかったと思う。その時以来、自分の中で「絶対に負けられない。どんな強い相手でもここで負ける訳にはいかない」って思いがすごく強くなりましたからね。そう言えば、この間ちょうど昔の雑誌を見返す機会があって。当時の記録を見ていたら高校3年生時の決勝も、11-0と11-3だったし…殆どの試合を、相手には最小限の点数しか与えずに勝っているから、自分で言うのもなんですけど、当時は圧倒的に強かったんだと思います。
橋本:高校の先生が一番怖かったっておっしゃっていましたけど、それだけ強くてもハルミさんも殴られました?
岩城:殴られましたね。特に私はシングルは得意だったですけど、ダブルスが苦手で。ダブルスでは二人の間に球を落とす“お見合い”が一番、許されないミスなんですよね。なのに、しょっちゅう落とすもんだから、それを理由に殴られることは結構ありました。いつだったか試合の1週間前の練習で、身体が吹っ飛ぶくらい殴られて。顔に痣を作って試合に臨んだこともありました。
橋本:ダブルスが苦手ってことは…やっぱり協調性がないんですね?
岩城:間違いないと思います。
橋本:ちなみに、日本一を実現してからも目標は常に日本一だったんですか? 世界一、という風には切り替わらなかった?
岩城:バドミントン界では当時、中国がダントツに強くて。もちろん、気持ちとしては何とか勝ちたいとは思っていましたけど、あまりにもレベルの差がありましたからね。だからこそ、世界一になりたいというよりは、打倒・中国というか。中国人選手を相手にしても、通用する選手になりたいという思いが強かったように思います。

取材協力/dieci
text by misa takamura

岩城ハルミ/プロフィール
1965年6月24日生まれ。大阪府大東市出身。中学1年生時に本格的にバドミントンをはじめる。中学~短大までを過ごした名門・四条畷学園では、高校2年生時に日本一の座を手に入れたのを皮切りに、卒業までその座を守り抜く。卒業後、所属した三洋電機ではケガに苦しむことが多かったが、2年半のリハビリ生活を経た88年。復帰戦となった全日本社会人大会で優勝し、劇的な復活を遂げる。以降もコンスタントに結果を残しながら、92年のバルセロナ五輪への切符を手に。同大会への出場後引退した。現在は『ヨネックスアドバイザリー』スタッフ、『オリンピアンズ協会』『大阪市ゆとりとみどり「夢・授業」講師や『パナソニックジュニアバドミントンクラブ』のコーチングスタッフとして小中学生の指導にあたる。<岩城浩平オフィシャルブログ/http://pure-city.jp/kohei/index.html

vol.29 岩城ハルミ(元バドミントン選手)

橋本英郎(以下、橋本):今日はお忙しいところありがとうございます。いつも旦那さま(注:ガンバ大阪トレーナー、岩城孝次氏)にはお世話になっている上に、こうしてお家まで押し掛けてしまってすいません。
岩城ハルミ(以下、岩城):いえいえ、息子たちもサッカーをしているので、息子ともどもこうして来ていただいてすごく喜んでいるんです。ただ、私で対談が成立するのかが不安です(笑)。私、結構、抜けているところがあって…子供たちにもよく突っ込まれるんですよ。
橋本:今はパナソニックのバドミントンチームで子供たちの指導にあたられているんですよね?
岩城:そうです。今年の4月づけで三洋電機株式会社がパナソニック株式会社の子会社になったことに伴い、『三洋電機バドミントンチーム』が『パナソニック バドミントンチーム』に名称が変更になったんですよね。それにあわせて私が指導していた『SANYO ジュニアバドミントンクラブ』の名称も『パナソニック ジュニアバドミントンクラブ』になり、今はそこで指導にあたっています。
橋本:ガンバ大阪もパナソニック株式会社がメインスポンサーだけに、家の中では過ごしやすくなったのではないですか?
岩城:私は現役時代、三洋電機の選手だったので、ユニフォームの色も赤から青に変わったり、企業スポーツとしてのいろんな取り決めの部分で、なんとなく違和感を感じるところもありますが、家の中では動きやすいというか。パナソニックのことも主人がよく理解している分、教えてもらえることも多くて助かっています。そう言えば、今回、対談させていただくにあたり、昨日初めてHPを拝見させていただいたのですが…といいつつ、読み過ぎたらプレッシャーになる気がしてあまり読んでいないんですけど(笑)。
橋本:(笑)。大丈夫ですよ。いつも行き当たりばったりの対談ですから、気楽に話してもらえれば嬉しいです。
岩城:いつもなら主人が横でいろいろとアドバイスをしてくれるんですけど、今日は私だけなので…言ってはいけないことまで話してしまいそうで、やや不安です。
橋本:じゃあ、岩城トレーナーが帰宅されないうちに、たっぷりいろいろとぶちまけてもらいましょうか(笑)。そういえば、岩城トレーナーとご結婚されてから名前をカタカナに変えられたんですね~。バドミントン選手として活躍されていた頃は、鴻原春美さんでしたよね?
岩城:そうなんです。結婚する際に姓名判断をしてもらって、名前をカタカナにしました。
橋本:姓名判断とか占いを信じる派ですか?
岩城:何でもかんでもは信じないけど…でも信じる方かな。名前を変えるといっても戸籍までは変えられないので、要は2つ名前を持っているような感じなんですけどね。人によっては全く違う名前にする人もいるらしいけど、私はそこまでは変えたくなかったので、いろいろと見てもらった結果、カタカナにしたんです。
橋本:サインがしやすいからいいですね(笑)。
岩城:(笑)。今では「自分の名前!」っていう感じがしてすごくしっくりきているし、幸せにも暮らせているので良かったです(笑)。橋本さんは、姓名判断や占いには興味はありますか?
橋本:ありますよ。姓名判断はしてもらったことがないけど、守護霊の話とかを聞くのは結構好きです。
岩城:スポーツ選手は結構多いですよね。私も、見てもらいすぎるのも、気にし過ぎてダメな気がするので、本当に大事な時だけ見てもらうようにしています。現役の時にケガで悩まされていた時なんかは、なんていうか…藁にもすがる思いで見てもらったこともありましたしね。
橋本:わかります。背中を押してもらいたいというか、ヒントが欲しいというか。全てを鵜呑みにする訳じゃないけど…まあ、自分の中だけでのきっかけみたいなものですね。ケガの話が出ましたが、その話を聞く前に、バドミントン選手としての輝かしいキャリアについて少し教えてもらえますか?

岩城:そんな大して輝かしくはないですよ!
橋本:いやいや、オリンピックに出場したというだけで十分輝かしいですよ!僕は縁がなかった大会なので。バドミントンを始めたのはいつですか?
岩城:本格的には中学1年からです。もともと、私は四条畷学園の附属の小学校に通っていたんですが、6年生時に特別活動でバドミントンをやる機会があって。その時に、中学のバドミントン部の先生の目に留まったらしくて。四条畷学園は中学、高校ともバドミントンの強豪校として知られる学校だっただけに、なんで私なんか…と思ったんですが、おそらく身体が大きかったからなのかなぁ(笑)。あとはその先生曰く「他の子に比べてバネがあった」と。自分ではよく分からないですけどね。
橋本:で、始めた途端にメキメキと頭角を表した、と。
岩城:中学3年生時にシングルスで全国3位になりましたね。
橋本:はやっ!やっぱり先生の見る目は間違ってなかった訳ですね…。
岩城:でも私としては優勝を狙っていましたから。結果的に優勝した選手と準決勝で対戦し、競り合った末に負けて3位になったんですけど、もう悔しくて、悔しくて。だから…当時からおそらく変わった子供だったと思うんですが…試合が終わったあと、体育館の観客席のところにあがって「今度は絶対に勝つ~~っ!高校に行ったら絶対に勝ってやる~~っ!」って泣きながら走って、叫んでいました(笑)。

橋本:え? 観客席にはまだ他の選手とか観戦者がいたんですよね!?
岩城:はい。
橋本:それは残念ながら、変わってますね(笑)。周りの目なんて全く気にしていなかったんでしょうけど。
岩城:ですね。自分が悔しい、という気持ちの方が大きくて、周りなんて全く見えていなかった。
橋本:でも本格的に始めたのが中学生からって、サッカー選手と比べてもそんなに早い方じゃないと思うんですが、バドミントン界はそんな感じなんですか?
岩城:いや、強い県は違いますね。例えば、陣内貴美子さんが育った熊本県も強豪として知られていますが、熊本県あたりは、小学3~4年生から本格的に鍛えられる厳しい環境がありますからね。その違いによる差は少なからずあると思う…っていうことを自分が大人になってから痛感しましたね。例えばサッカーでもボールタッチの柔らかさなんて、大人になってから身に付けようと思っても難しかったりしますよね?それと同じで、バドミントンも基礎技術を小学生の時にしっかりやっている子とやっていない子ではどうしても大人になった時に差が生まれてしまう。実際、私も、社会人でプレーしていく中ではもっとラケットワークがあったらな、って何度も思いましたからね。だからこそ、今、ジュニアの子供たちを指導するにあたっては、そのへんをきっちり教えたいというか。基礎技術をしっかり身につけた上で、大人になるにつれて身体ができてきて、パワーが出て来たら間違いなく伸びると思いますから。
橋本:ハルミさんの中学時代は、どのくらい練習をしていたんですか?
岩城:半端ないくらい練習は厳しかったし、練習量も多かったですよ。例えば、学校の側に飯盛山っていう山があったんですけど、最初のウォーミングアップでその山の中腹まで走らされるんですよね。往復で30~40分くらいだったかなぁ。しかも行きはかなり急な上り坂ですからね。殆どの選手が走り切れずに終わる、っていうくらいの状態でなんとか帰って来て、そこからまずは1000本ノックのようなことが始まって。時々500~600本で終わることもあるんですけど、いずれにしても最後は肩もあがらない、足もあがらない、っていうような状態になる。でもそれもあくまでアップ段階で、そこから更に大変な練習が待っていますから。そういうのを毎日、授業が終わって16~20時くらいまでやっていました。
橋本:休みはあったんですか?
岩城:テスト中と12月31日、1月1日、2日だけが休みでした。
橋本:今、ハルミさんが教えている子供たちも、そのくらい練習をするんですか?
岩城:本当に強くするためには、そのくらいやらないといけないんですけどね。ただ…なんて言ったらいいのかなぁ、今の選手は追い込まれている感じが全くない(笑)。私たちの時代は先生が厳しかったのもあったけど、1球のミスにかなりビビっている自分がいて。4時間の練習でも気を抜けるような時間は一切なかったし、気を抜こうものなら容赦なく竹刀で叩かれたり、殴られたりしましたからね。そういえば、当時、うちの父親がお風呂に入ろうとした私を見て、青痣だらけでびっくりしたらしくて。私が一切、そんな話を家でしないもんだから、余計に驚いたみたいです。もちろん、それも愛のある暴力だったと分かっていたので親も黙認していましたけど、今の子供たちは…暴力があるからないからの問題ではなく、いずれにせよ、追い込まれた中でバドミントンをやっている感じがないんですよね。時代かなぁ。
橋本:中学からバドミントンを始めても、そういう厳しい練習に最初からついていけたのですか?
岩城:ついていっていましたね。
橋本:そんなに厳しくても、楽しめていました?
岩城:いや、楽しくないです(笑)。だから一度だけ辞めようとしたこともありました。っていうのも、四条畷学園は中学、高校、短大のバドミントン部がみんな同じ体育館で練習をしていたんですけど、当時、高校の先生が一番厳しかったんですよね。で、ある日、横で練習をしていた高校の先輩がその先生に恐ろしいくらい殴られていて。鼻血が出ているのもおかまいなしに、まだ上から馬乗り状態で殴られていた。それを見て「あれは私には無理や。もう辞めよう」と思って、1週間くらい練習を休んだんですよ。そしたら、最初は冗談だと思っていた先生もこれはヤバいと思ったらしく、家に電話がかかってきて、うちの母親に「娘さんを練習に連れて来てください」と。それに、私を引き戻すためにいろんなことを言って母親を説得したらしく、今度はその母親に私が説得された。「苦しい時もあるかもしれないけど、頑張ったら絶対に日本一になれるからって先生も言ってくれているよ。だから頑張ったら?」って。それを聞いて、そうか日本一になれるんなら戻っても良いかな、と。単純ですけど、そういう言葉には間違いなく弱いですからね。結果的に、「あんなに殴られたら耐えられる自信がない」と思いつつ戻ったんですが、楽しかったと言われたら…う~ん、やっぱり楽しくはないかな。でも勝つ喜びは間違いなく感じていましたね。

橋本:スポーツにおいて『楽しむ』って表現はすごく難しいと思うんですよね。受け取り方によっては、真剣味が足りないってことにもなってしまいますから。例えば、サッカー界で日韓戦と言えば、お互いにライバル心をむき出しにした戦いになるじゃないですか? そういう試合で例えば、選手が「日韓戦を楽しんで戦います」って言うと、「日本を代表して戦うのに、楽しんでいる場合じゃないやろ」と受け取る人もいる。でも、決してその『楽しむ』は楽をするとか、本気じゃないということではなくて。強い相手とのせめぎ合いや緊張感、スリルというのかなぁ。1つのミスが命取りになるというような緊迫した状況の中での緊張感、ゾクゾク感を『楽しむ』っていう意味なんですよね。しかもそれがあるから普段の練習も頑張れるというか。少々辛いことがあっても、そういう『楽しさ』を知っているし、その楽しさは、高いレベルになるほど増していくから頑張れる。ハルミさんもきっとそういう感覚だったんでしょうね。
岩城:その通りですね。練習が楽しかったかと言えば、決して楽しくはなかったけど、でも、試合には自分が求めているものがあるから、そこから逆算して、楽しくない練習も頑張らないとアカンよな、っていう感覚は間違いなくありました。

取材協力/dieci
text by misa takamura

岩城ハルミ/プロフィール
1965年6月24日生まれ。大阪府大東市出身。中学1年生時に本格的にバドミントンをはじめる。中学~短大までを過ごした名門・四条畷学園では、高校2年生時に日本一の座を手に入れたのを皮切りに、卒業までその座を守り抜く。卒業後、所属した三洋電機ではケガに苦しむことが多かったが、2年半のリハビリ生活を経た88年。復帰戦となった全日本社会人大会で優勝し、劇的な復活を遂げる。以降もコンスタントに結果を残しながら、92年のバルセロナ五輪への切符を手に。同大会への出場後引退した。現在は『ヨネックスアドバイザリー』スタッフ、『オリンピアンズ協会』『大阪市ゆとりとみどり「夢・授業」講師や『パナソニックジュニアバドミントンクラブ』のコーチングスタッフとして小中学生の指導にあたる。<岩城浩平オフィシャルブログ/http://pure-city.jp/kohei/index.html

vol.28 原田浩平(フットサル選手)

橋本:フットサルは20分ハーフの前後半だけど、ボールが出る度に時計が止まるよね。トータルすると何分くらい戦っていることになるの?
原田:だいたい35~40分くらいですね。
橋本:あとスローインの時に4秒以内に投げないといけないというのも結構慌ただしかった印象がある(笑)。ボールを出すところを探しているうちにすぐにピッて笛が吹かれて相手ボールになったことが何回かあったから。
原田:そのへんも慣れだとは思いますよ。ただそういう細かいルールが結構あるので最初は戸惑う人は多いかもしれない。あと、ボールが出たり、何かで試合が止まる度に時計も止まるので、サッカーのようにロスタイムが全くなくて20分ちょうどで試合が終わるというのもフットサル独特ですね。
橋本:そう考えると、ハーフで 35~40分なら、サッカーと殆ど変わらない時間をプレーしていることになるから、結構キツいよね。そういえば、2008年の1月だっけ?左膝を痛めたんでしょ?

原田:そうですね。前十字じん帯損傷で手術をしました。
橋本:前十字なら結構、時間がかかったでしょ。
原田:長かったですね。復帰まで9ヶ月くらいかかりましたから。2008年の1月にけがして2月に手術をして、2009-2010シーズンの3巡目くらいから復帰したんですけど、感覚的なものがなかなかすぐには戻らなかったですしね。今でもケガをした前と全く同じ状態かと言われれば、やっぱりまだ感覚的な部分で戻り切っていない気がしますし。最近はかなりマシですけど。
橋本:接触でやったの?
原田:いや、自爆です。
橋本:そうかあ。前十字じん帯ってサッカーでも結構、自爆で痛めることが多いんよね、横浜FMの山瀬功治くんとか磐田の村井慎二くんとかも、接触とかじゃなくて自分でやっているからね。着地のタイミングで切ってしまったり、ドリブルしていてターンしようとした際に身体のバランスを崩して変な倒れ方をしたなと思ったら切っていたり。サッカー選手の場合は基本的に芝生に引っかかることも多いしさ。だから余計に怖い。どれだけ気をつけていても、ある意味、防ぎようがない部分もあるから。コンディション管理は結構、徹底してやる方?
原田:どうかなぁ…人並みだと思います。
橋本:食事とかはどうしてるの?
原田:作る時もありますけど、基本は外食ですね。橋本さんは外食は多いですか?
橋本:僕も含めて、基本的に年が上の方の選手は結婚している選手が殆どやから、やっぱり家で家族と食事を食べることが多いけど、結婚をしていない若い選手は外食が多いんじゃないかな。だから、年が上の選手のことほどプライベートを知らない(笑)。若い選手は気軽にご飯にも誘えるし、実際に一緒に行くこともあるけど、家族がある選手は基本的に家に帰るからそういう訳にもいかないし…あまり普段の動きが分からんねん。
原田:二川孝広選手って、結婚していないんですよね?意外でした。

橋本:意外?!なんで?
原田:いや、面識はないですけど見るからにいい人やのになんで彼女がいないのかなと思って(笑)。
橋本:いい人じゃないよ(笑)。
原田:そうなんですか?!どんな人なんですか?
橋本:そうやなぁ…まず人見知りが激しい。だから飲み会とかも嫌いやし、殆どチームの飲み会にも参加しないし、してもすぐ帰る。っていうか、基本、プライベートは個人プレーが多いからね。サッカー以外の友だちと遊びに行ったりはしているらしいけど、素性はまったく分からんわ(笑)。あれ?原田くんは神戸に住んでるって言ってたけど、地元はどこ?
原田:大阪です。だから結構大阪には遊びに行きます。もし遅くなって帰れないということになってもいざとなれば実家があるので。
橋本:それ便利よね。じゃあまたゆっくり大阪でご飯に行こうよ。うちの嫁は、まだ子供が小さいこともあって、僕が連戦で留守をが続く時は、その間、自分の実家に帰っているんよね。そういう時は僕も若手を連れてご飯に行ったりしているから、その時にまた声をかけるわ。
原田:是非に誘ってください。僕、結構フットワークは軽いので(笑)。
橋本:将来のこととかは考えてる?まずはチームと日本代表で活躍して、というのが目標なのかな?
原田:基本的に代表には常に入りたいと思っていますね。やっぱり選手個々のレベルも高いし、みんな巧いので一緒にプレーしていても楽しいから。
橋本:サッカーみたいに、代表の試合も頻繁にあるの?
原田:いや、ないですね。今年はとりあえず代表戦はなかったですし。基本的には大会にあわせて、という感じです。ただ強化試合はたまにしていますよ。あと、今後は試合のあるなしに関係なく、月に1回、招集されることが決まったらしいです。これは今までになかったことなんですけど、協会としても強化に力を入れていこうという狙いがあるらしくて。
橋本:強化合宿とかってどこで練習してるの?

原田:いろいろですね。今月は千葉でやりましたが、基本的にどこ、というのは決まっていないです。ただそうやって定期的に集まるのは自分のレベルアップということを考えてもプラスだと思うし、それをいい形でチームに還元できたらな、とは思います。
橋本:それは僕らも同じだと思う。代表に行けば、また新鮮な気持ちでサッカーが出来るところもあるし、学ぶことも多いからね。僕ももちろん狙ってはいるけど…ま、頑張ります(笑)。長くなってきたけど、なんか質問があれば受け付けるけど(笑)?
原田:そういえば今年の7?8月に6連続ゴールを決めていたじゃないですか?あれってプレッシャーはかなりかかりました?
橋本:記者の方たちから聞いたところによると、5戦連発がJリーグでプレーする日本人選手の最年長記録らしくて。そういう数字的な話を聞くと余計にプレッシャーがかかったりもしたけど、チームメイトは意外とそっとしていてくれたからね(笑)。そこまで気にすることはなかったかなぁ。っていうか、5戦連続までチームも負けなしやったのに、6戦連続ゴールを挙げた名古屋戦に負けてしまったから…そっちの方が悔しかったわ。
原田:サッカーも今年は名古屋が調子いいですよね…でも両方とも名古屋にもっていかれるのは悔しいのでお互い頑張りましょう!
橋本:そうやな。僕らもまだ優勝の可能性が消えた訳じゃないし、最後まで何が起きるか分からない訳やから、とにかく自分たちが勝ち続けることで名古屋を含めた上位陣にプレッシャーをかけ続けたいね。それにしても、こうして違う世界にいながら同じプロとして頑張っている選手の話というのは楽しいし、刺激になったわ。今日は貴重なオフやったのに大阪まで出て来てくれて、ありがとう。ホンマにまた飯に行こう!
原田:本当にお願いします。普段はお酒は呑まないんですか?
橋本:いや、基本的には好きよ。だからシーズン中は出来るだけ、車で出掛けるようにする。そうしたら、必然的に呑めないから(笑)。
原田:なるほど(笑)。またじゃあ、お酒の方はシーズンオフにゆっくり、ということで。最後に実は、僕もブログをしているので写真を撮らせてもらっていいですか?
橋本:お!ブログやってるんやぁ。結構頻繁に更新してる?
原田:最低でも1日1回はしてるかな…。
橋本:偉いなぁ!僕は最近、週に2回のペースになってきているからなぁ。見習って更新できるように頑張るわ。というわけで今日はありがとう。とりあえず11月2日の名古屋戦を応援しに行くから、またその時にゆっくり!
原田:楽しみにしています。僕もまた試合を観に行きます!

取材協力/dieci
text by misa takamura

原田浩平/プロフィール
1983年6月25日生まれ。大阪府出身。清風高校、大阪体育大学ではサッカー選手として活躍。卒業後、フットサルに転向し、F リーグ発足初年度からデウソン神戸でプレー。Fリーグ2007ではベスト5に選ばれた。日本代表。
<原田浩平オフィシャルブログ/http://pure-city.jp/kohei/index.html

vol.27 原田浩平(フットサル選手)

橋本:そういえば、今年はキャプテンをしているんよね?
原田:はい。一応…でも名前だけですよ。監督が決めるんですけど、4年目でなぜか使命されて。あまり自分では向いているとは思わないんですけどね(笑)。
橋本:僕もむいてないタイプやわ(笑)。
原田:でも、しっかりしていますよね?
橋本:してる…してるかなぁ?もう 30才だし、しっかりしてないとヤバいけどね(笑)。練習はどんな時間帯にしているんだっけ?
原田:うちは10時~12時とかの時間帯の練習が多いですね。練習は基本的に週の3日が一部練習で、2日が2部練習。2部練習のときは夜の練習が20時からと、遅めなんです。
橋本:それ以外の時間は…何してるん?
原田:っていうか、サッカー選手はどうしてるんですか(笑)?
橋本:何してるんやろな。昼寝とか?でも意外と時間がないけどね(笑)。
原田:僕らもそんな感じですよ。午前で練習が終わるときは意外に時間があるようで、ない。
橋本:サラリーマンに比べると、働いている時間で換算したらどう考えても短いし、楽なはずやねんけど意外と時間ってないよね。2部練習はあまりないの?
原田:火曜日と木曜だけです。
橋本:っていうことは、試合が土曜日にあったとしても前々日である木曜日は2部練習をするっていうこと?
原田:いや、そのへんはバランスをとりますね。試合に出る選手は午前は練習して、午後はクールダウン的なことをするだけですけど、試合にあまり出ていない選手は午後も練習試合をしたり、結構しっかりやります。
橋本:僕もフットサルをやりたいなって思ったりするねんけど…フットサルってどういう能力が優れていたら活躍できるというか、いい選手という評価を受ける?
原田:どうでしょうね…ミスが少ないことと足下の技術があること。あとは戦術理解ですかね…。
橋本:ドリブルで抜く技術とかは結構いる?

原田:抜くより、交わしてすぐ打てるとか…ステップの方が大事だと思いますね。抜き切れなくてもコースだけ狙えれば大丈夫だし。
橋本:あと根本的な質問で申し訳ないけど、フットサルの時にトーキックをすると爪が痛いねんけど、それは下手やから?前にその悩みをブラジルから来た日本でプレーしている選手に打ち明けたら、「親指を上にあげて蹴ったら痛くない」とアドバイスしてもらってんけどね。
原田:分かります!僕も利き足の右足は痛くないけど、左足は痛いですから(笑)。たぶん、右足は利き足だからボールを蹴る瞬間に自然と親指をあげていると思うんですけど、左足は細かく神経が行き届いていないせいか、それが出来ていないんでしょうね。でも、みんなそんなもんだと思いますよ。
橋本:シューズの先が堅いのとかないんかなぁ?
原田:ありますよ。実際、僕は痛いのが嫌で、堅いシューズを選んで履いています。
橋本:日本代表選手にそういう言葉を聞くと安心するわ。でもさ、結局先が柔らかい方がタッチはしやすいやん?だから柔らかいのを履きたいねんけど、そうすると爪が痛いし…。まぁ、そんなに真剣に悩むほどのことではないか(笑)。
原田:(笑)。
橋本:話を戻すと、原田くんはさっき教えてくれたようなフットサル選手としての能力はもともと高い方だったん?
原田:そうでもないと思いますけどね。
橋本:サッカーの時のポジションはどこ?
原田:左ハーフとかトップ下とかですね。もともとディフェンスが出来ない選手だったのは間違いないです(笑)。
橋本:でも全体的に身体はみんな小さいよね。173センチの僕が混ざっていたとしても身長の低さはそんなに気にならない気がするというか…180センチを超えた選手ってあまりいないでしょ?
原田:そうですね。あまりいないですね。
橋本:原田くんで何センチくらい?
原田:176センチですね。
橋本:原田くんでも、標準より大きい方じゃない?だって、GKの身長を見ていても、176センチとか、178センチとか…そんなにデカイ選手はいないでしょ。ゴールマウスがサッカーより小さい訳やから、そこに185センチくらいある選手がいたら、立っているだけで威圧感あるのに(笑)。
原田:シュライカーのイゴールっていうGKは187センチありますよ。それだけでかなりの威圧感があるし、チームにとってもかなりのプラスだと思う。
橋本:それ、めっちゃデカイやん!そう考えると…身体的にはやれそうな気がするけど、サッカーが巧いからと言って、フットサルが巧いとは限らないって話もよく聞くからね。やっぱり独特の難しさとか、向き不向きがあるんやろうね。

原田:でも、基本的にプロのレベルでやっているような選手はそもそもの能力が高いので慣れれば出来ると思いますけどね。ただお金にならないのは間違いないですけど(笑)。
橋本:そこなんよね。フットサル界にしてみたら、元プロサッカー選手がフットサルの方に転向して、活躍することでもっとフットサルの知名度をあげて欲しいという思いがあるらしくて。ただ現実的に稼げるか、といえばそうではないのが現状やから、なかなかフットサルに転向する選手はいないよね。移籍はどうなん?頻繁に行われるの?
原田:シーズンが終わったタイミングには結構ありますけど、シーズン途中はそんなにないです。
橋本:移籍金は発生する?
原田:いや、ないですね。
橋本:ってことは「移籍したい」といえば出来るっていうこと?
原田:だと思うんですけど、基本的にあまり考えたことがないところなんで、正直よく分からないです。ただ、本人の意思が大きく影響するとは思います。もちろん、契約書を交わしているので、複数年契約とかだったら契約満了までは無理だと思うけど、契約満了後の移籍なら問題ないと思う。
橋本:そこは今のJリーグも同じやからね。移籍金は発生しなくなったけど、その分複数年契約選手が増えて、それを破っての移籍になると違約金が発生することになっているから。名古屋オーシャンズのFP小暮賢一郎くんみたいにスペインから日本に戻ってくると金額は上がるのかな?
原田:いや、それはあまり関係ないと思う。僕らのチームにも一人スペインに行っていて、帰って来た人がいるんですけど、他の選手と殆ど変わらないですからね。
橋本:平均寿命はどのくらい?サッカーを引退してからでも間に合うのかな…(笑)?
原田:うちで27~28才くらいだと思います。基本的に大卒の選手が多いから、そんなに若くはないですね。
橋本:いま、Fリーグの最年長選手で何才くらい?
原田:ペスカドーラ町田の甲斐修侍さんって言う選手が38才ですね。僕らのチームの最年長は、32才かな。でも、年齢はあまり関係ないというか…サッカーもそうですけど、結局その人次第だと思いますけどね。
橋本:でも、運動量的にはバスケットと同じような感覚だから、結構キツいよね?
原田:キツいのはキツいけど、サッカーと違って交代が頻繁にできるので、なんとかなります。
橋本:そっか。サッカーと違ってメンバー交代に制限ないもんね。確かファーストセット、セカンドセットみたいな感じで、セットを作っておいて、うまく回す感じになってるんよね。同じポジションの選手が常に控えていて、疲れ切る前にどんどん交代させて活性化させていく、みたいな。
原田:そうですね。その面ではサッカーに比べたらかなり楽だと思いますよ。ぶっ飛ばして疲れても、すぐに交代できるから。
橋本:かといって、すぐに動けなくなって交代、という訳にもいかないやろうけど、ある程度、ポイントで活躍できればいけるっていうことかも知れないよね。そう言う意味では、サッカーで言うバッジョとかトッティのように、決定的な仕事を出来るタイプの選手が多いほど、チームは強くなるっていうことかもね。
原田:その通りですね。ポイント的な強みを持っていれば、選手寿命は間違いなく伸びると思う。
橋本:サッカーはGKはフィールドの選手より若干、選手寿命も平均的に長めやけど。フットサルもそう?
原田:そうですね。やっぱりちょっと高めかな。
橋本:フィールドではどこの選手の年齢層が平均的に高い?やっぱりディフェンス?
原田:そうですね。ディフェンスの人の方が長く続けている感じはしますね。

橋本:そこらへんはやっぱりサッカーと似てるなぁ。デウソンのシステムは?
原田:多少は試合の中でも、変えながらやりますけど基本の形は2-2のボックスです。
橋本:名古屋はダイヤモンド?
原田:いろいろですね。あそこはどんな形でも出来るし、それが強みの1つだと思う。で、あとは…リカルジーニョです(笑)。
橋本:基本的にフットサルって1対1の場面が多いから、カバーとかって出来ないんやろうなぁ。つまり、リカルジーニョが強いからと言って、2対1の状況を作ってカバーしようとしてもそこで出されたら一瞬にして終わってしまうから、結局、一人が耐えきらないとアカンという場面が非常に多くなる。サッカーなら、フィールドは10人と人数がいる分2対1の状況を作ったとしても、カバーできる選手がいるけどね。でもフットサルはフィールドが4人やからね…絶対にそうはいかないし、対面する相手が次元が違う選手となれば、結局、誰がいっても無理やろうし…って話していたらフットサルを観に行きたくなってきたわ(笑)。やっぱり11月2日の名古屋戦、観に行くわ(笑)。
原田:ぜひ、来てください!
橋本:うん、楽しみにしてるわ。でもさ、試合のスケジュールを見ていると、名古屋戦の2日前にも試合をしてるから…ってことは中1日か。結構ハードよね。
原田:このタイミングが1年の中で一番スケジュール的に詰まっているんですよね。しかも相手が名古屋なんで、結構厳しい試合にはなると思いますけど…頑張ります。

取材協力/dieci
text by misa takamura

原田浩平/プロフィール
1983年6月25日生まれ。大阪府出身。清風高校、大阪体育大学ではサッカー選手として活躍。卒業後、フットサルに転向し、F リーグ発足初年度からデウソン神戸でプレー。Fリーグ2007ではベスト5に選ばれた。日本代表。
<原田浩平オフィシャルブログ/http://pure-city.jp/kohei/index.html